本尊由来記 |
昨年開創五百五十年慶讃・開山観誉祐崇上人五百回忌の記念式典を厳修致しましたが、その際、選擇寺の歴史について種々、お調べ致しました。「温故知新」の心を持って、檀信徒皆様に、お伝え申し上げたく、今回の浄心より「当山歴史」と題し、掲載させて頂きます。選擇寺の古き歴史を検証することにより、明日の選擇寺興隆発展、仏教伝道に繋がるものと存じます。 |
≫このページのトップへ |
明治十六年の事跡 |
江戸時代に於ける各諸寺院は、寺院法度の決まりはあるものの、徳川幕府より手厚く庇護されていました。大本山の芝増上寺は、寺領一万石、格式十万石とも言われ、大変な権力でありました。 |
≫このページのトップへ |
保科正重と母の墓 |
今回は、当寺境内墓地に、寛永年間に、葬られ奉安されています「保科正重と母」についてご紹介申し上げます。 |
≫このページのトップへ |
会津藩主 松平容敬(まつだいらかたたか)候 選擇寺を本陣とし宿泊する |
|
≫このページのトップへ |
木更津県権令「柴原 和」選擇寺を宿舎とする |
選擇寺に宿舎が置かれたのは、当寺が木更津町の中央に位置し、県庁に通勤しやすく、広大な寺域及び伽藍を有し、木更津県の首長が居住するに相応しい寺格の寺院であったからだと考えられます。柴原和が赴任していた2年間は、当寺の書院客殿は、執務室、客室、官員室、警護室、寝室等に使用されていました。 |
(現代語訳) |
![]() |
【住職私見】 木更津県権令・千葉県県令として、その任に就いているが、随所に於いて、まだまだ不穏な動きも有り、不吉な予感もする。徳川の世が終焉を向かえ、新政府の下、日本国の為、県民の為に、治安の安定等、県政を担う首長として、その政策にあたっているが、中々良策がなく、政策が上手く運ばず大変苦しんでおります。しかしながら、考えてみると、往古の昔より、「一国の長」と言われる、貴族や武将の英雄諸侯も、今の私のように、万民和平の政策をすすめて行く上で、さぞ苦しみの涙を流し、悩んだに違いないことでしょう。 |
≫このページのトップへ |
幕末戊辰戦争 木更津の合戦 「上総国木更津本営徳川義軍府選擇寺に本陣を置く」 |
江戸幕末の選擇寺についてご紹介申し上げたいと存じます。上記の通り、当寺は幕末に徳川義軍府の本陣に当てられました。
当寺が本陣に相応しい寺格を有し、又大勢の武将を収容できる大伽藍もあってのことだと考えられます。 慶応4年 閏4月1日 「天気快晴。昼前に御伝馬札と昨日大鳥居村から真里谷まで付き送った賃金、下された分一軒前一貫文を払う。 昼少し前に富津磯崎の息子と東嶽の弟子が石町孫吉の手紙をもって訪ねてきた。(中略) 夕方には風呂に入り、早めに床に就いていたところ、小平翁があわただしく戸を叩き、 選択寺の本陣より重役が出発されたことを告げた。あわただしく起きて、お迎えのあかりを点し、お茶を差し上げた。義府の軍用が切迫したためこの村の有志へ相談し頼りたいとの仰せを聞く。明朝、有志を集めじっくりと相談した上でお答えしますと申し上げて別れた。門前までお送りして、すぐに床に就いた。涙がでてしまった。(後略)」 徳川義軍府の本陣、選擇寺より重役が来られ、軍用金が切迫しているから、何とかしてほしいという事であり、保は、徳川義軍が、その様な状況になっているのかと思うと、涙が出てしまった。と、大変哀しんでいる。当時木更津は、徳川再興を願う人々が大半を占めていました。(木更津の地は、天領であり、旗本・御家人が所領しておりました。) |
慶応4年 閏4月2日 「快晴。早くに起きて、後原・神崎を呼んで昨夜の件を相談し、その他、新造・小右衛門にも相談する。まず決定したのは、後原・神崎・自分で、それぞれ五〇俵のあわせて百五〇俵、新蔵二〇俵、小右衛門一〇俵、合計一八〇俵を拠出するということで、 保と村の有志とが相談し、300俵を義軍府へ献上することを決めた旨の書類を持参し、本営の選擇寺にて、ご重役の、斉藤様・井田様へ直接面会をし、又米を金にして欲しいと、あります。 |
慶応4年 閏4月3日 「快晴。早朝より不動院へ寄る。それぞれが集めた金をまとめてみる。
だんだんと人がやってきて雑務におわれていると、このような手数もでき、普段であったらとても迷惑だと思うのだろうが、皆が勇み進んで三〇〇俵の拠出ができることは実に晃廟の余光と言えるだろう。 皆迷惑な事だと思うが、徳川家のため、進んで300俵拠出してくれた。選擇寺へ出かけるが斉藤様他留守である。と、軍勢の様子等記している。 |
慶応4年 閏4月4日 「激しい風雨。今日の朝、幸右衛門殿が木更津へ参上して井田様のお出ましを伺った。 この日、船橋大神宮で合戦があり、徳川軍は、敗北した。井田様の喜びは、米を金に換えることが出来た事であろう。 |
慶応4年 閏4月7日 「曇り。朝のうちに万石酒屋に書状を出して、本日米五〇俵を預けたい旨を申し入れる。承知の趣をもって源奴(人名か)が帰ってきた。神崎より馬を借りて二匹にて(米を)運ぶ。
本日、五井川・八幡の間で戦争とのこと。大砲がおおいに響いていた。 生々しい戦いの様子が記されている。徳川義軍の敗北が色濃くなってきた。苦戦した事なども記されています。総督の福田八郎右衛門様も負傷したとの事。選擇寺についての記載はありませんが、当時の合戦の様子が細かに書かれています。 |
慶応4年 閏4月8日 「(前略)官軍はもはや木更津にむけて進軍している。夕方までにおよそ一千人が通っていくことが予想される。切歯扼腕の事柄である。(中略)夜が深まってから林候の陣屋二ヶ所から出火。真理谷真如寺から出火。」 8日の日記だが、今日までに船橋・姉崎・五井と戦いに敗れ、木更津に朝廷軍が千人も攻めてくると言う、本陣も選擇寺から真如寺に移りましたが、その本陣も焼討ちにあい又、請西藩陣屋からも出火とあり、「切歯扼腕」と、述べています。その後、徳川義軍は「義軍の兵士は東西南北に落ちていったようだ。」と、翌日の9日の日記に記載されております。 かくして、保の手元には、米300俵の借用証だけが残ったのであります。 時代の流れは止めることができません。その後の歴史は皆様が知るところです。本陣である選擇寺堂塔伽藍の焼討ちが無かったのは、誠に有難いことです。 |
≫このページのトップへ |
江戸後期の幻の書家
|
今回は、境内に「思亭記」という石碑が建立されています。その建立者、寺本海若と、石碑の内容(裏面の碑陰も含む)について、ご紹介致します。 |
君津郡々誌・木更津市史に、
鈴木梅若 「誌史には、名前に誤りがあり大変残念です。スズキバイジャクは、誤りで、寺本海若テラモトカイジャクです。 「鈴木梅若は木更津の人。幼にして学を好み、亀田鵬斎に学び、文をよくし、また書もよくし、兼て国学に通じていた。その著書に『雁金日記』がある。晩年郷里に家塾を建てゝ子弟を教養した。天保十三年(一八四二)歿した。享年四十七。」以上は、木更津市史にありますが、君津郡々誌よりの抜粋と、あります。 |
先ずは正面の、「思亭記」の内容について、現代語訳にて記します。
|
この「思亭記」は、文政10年(1827)に海若が書し建立致しました。詩の作者は、中国宋代の役人、陳之道で、その教養の基盤となるのは「儒教」です。儒教に精通していないと中々理解するのが難しいと思いますが、詳しくは、又別の機会にお話申し上げるとして、ここでは、次のようにご理解いただければ幸いです。 |
*中国の墓地について、論語に次のようあります。 |
以上の様になりますが、その内容に合わせ、鵬斎流唐様式の書体を特に、覧頂きたいと存じます。 |
現代語訳に致しますと、
|
|
現代語訳は次のようになります。
|
|
幻の書家、寺本海若の思いを今に伝える「思亭記」碑、今から180年前の文化文政時代の当山の事跡の一つです。 |
≫このページのトップへ |
まず初めに、「お竹大日」について、ご存じない方もあると存じますので、羽黒山正善院に伝わる、「お竹大日堂」の由来を説いた「於竹大日如来縁起絵巻」より、その縁起の概略についてご紹介致します。 以上でありますが、簡単に「お竹」についてに記しますと、 又、お竹自身も、 と、詠んでいます。共にご信仰からの、句であります。 |
お竹大日供養塔の石碑文字
中段の石、正面には、
中段の石、左側には、
中段の石、右側には、
中段の石、裏側には、
先ず、正面上段は、出羽三山の神仏の象徴、大日如来を供養讃嘆しています。 |
≫このページのトップへ |
中国の教えの中に、この言葉があるようです。 私は
この言葉は、間違いなく、女傑山本キクに贈られたものと、確信をしおります。 次に、
この四文字熟語は、住職山本禅應に贈られた言葉であろうと存じます。 「煩悩の雲を攘い悟りの道を尋ねて行く」 との、巳代治公の言葉でございましょう。 |
≫このページのトップへ |
今回の当山歴史は、選擇寺に伝わる「釈迦涅槃図」についてご紹介させて頂きます。幾多の火災・震災を免れ、今に伝わる、一番大きな一幅です。毎年、お釈迦様の涅槃の月、即ち2月に本堂に御奉安致しております。 1.選擇寺本「涅槃図」の由来 2.天羽七右衛門尉景安 ![]() 天羽家系図は「景次→景慶→景安→七右衛門→某」とあり、この諸家譜にても、家禄ニ百石で代官を勤め、天和2年に亡くなった事が記されています。他にも幾つか資料があり、総合いたしますと、天羽家並びに景安とは、次のような家系・人物であることが分かります。 3.涅槃図の形式 4.他本(他の涅槃図)との類似 5.絵図の紹介
左端の沙羅の木に、薬袋が掛かっていますが、この中に、お釈迦様が飲まれる薬が、入っています。ねずみが取りに行こうとしたところ、猫が邪魔をしたため、お釈迦様は薬を飲むことができませんでした。そうした理由で、画中に猫は描かないのですが、選擇寺本は、猫が描かれています。
絵図そのものの、解説が出来ませんでしたが、又、別の折に、詳細にご説明申し上げたいと存じます |
≫このページのトップへ |
選擇寺には、江戸時代に書された、十数通の古文書が残されておりますが、その文中に、当寺の職務についての記載があります。今回の当山歴史は、古文書より発見した、当寺の役職についてご紹介致します。 特に最後の文言は、「むやみに出仕してはならぬ」と、固く戒めています。 |
≫このページのトップへ |
選擇寺後方に、木更津第一小学校がありますが、明治十一年までは、選擇寺の境内地でありました。(約千坪) |
≫このページのトップへ |
「明治六年六月木更津村に設置せらるる当時は仲町選擇寺の一室を借りて仮庁舎に充てたりしが後南町第四大区扱所に遷り後八幡町に改築移転し更に明治三十六年五月廿二日木更津町木更津字仲町千参百七十七番地の一に新築移転せり現今の庁舎之なり云々」と、千葉県君津郡誌下巻八二七頁の第二節「木更津警察署」欄にあります。この文は、現在木更津警察署で保持するところの「警察沿革史」とほぼ同文であります。この文章を持って、木更津警察署が選擇寺の一室より始まった事がお分り頂けることでしょう。 |
≫このページのトップへ |
小林一茶の経歴等は、皆様もよくご承知の事と存じますので詳細は略しますが、宝暦十三年(一七六三)現在の長野県信濃町に農家の長男として生を受け、十五歳で江戸へ出ます。そして、二十五歳の時、二六庵小林竹阿に師事して俳諧を学び、その後は、俳諧道を究めてゆきます。
|
≫このページのトップへ |
木更津の繁栄と文化発展に寄与(一) 郷土の偉人 藍屋稲次東渓(あいやいなつぐとうけい) |
今回の「当山歴史」は、木更津の発展・文化交流に尽くし又は、影響を与えた、当寺の檀徒 稲次東渓 (元知・げんち)についてご紹介申し上げます。
活字にした時、作左衛門を作右衛門と、誤字したのでしょう。 |
≫このページのトップへ |
前回は、藍屋 五代目当主 稲次東渓につて書しましたが、今回も同家より、八代目を継承した「稲次眞年」について、ご紹介申し上げます。
千里を越える異郷の地、奥州陸奥国松島の雄島に、文政年間に建立した稲次眞年の「供養碑」が朽ち果てずに残っている事に有難さを感じるのでした。
|
≫このページのトップへ |
当山歴史 | 行事活動 |