・本尊由来記
・明治十六年の事跡
・保科正重と母の墓
・会津藩主 松平容敬候 選擇寺を本陣とし宿泊する
・木更津県権令「柴原 和」選擇寺を宿舎とする
・幕末戊辰戦争 木更津の合戦 徳川義軍府 選擇寺に本陣を置く

・江戸後期の幻の書家 寺本海若と「思亭記」碑について
・嘉永二年八月「於竹大日供養」 選擇寺にて出開帳
・憲法の番人 伯爵 伊東巳代治公と当寺36世山本禅應上人並内室キク
・選擇寺本「釈迦涅槃図」天羽七衛門尉景安が奉納
・江戸時代に於ける選擇寺職務 触頭と納経拝礼
・木更津市近代幼児・児童教育発祥之地
・木更津警察署発祥之地
・小林一茶と選擇寺
・郷土の偉人(一) 藍屋稲次東渓
・郷土の偉人(二) 藍屋稲次眞年



  本尊由来記

 昨年開創五百五十年慶讃・開山観誉祐崇上人五百回忌の記念式典を厳修致しましたが、その際、選擇寺の歴史について種々、お調べ致しました。「温故知新」の心を持って、檀信徒皆様に、お伝え申し上げたく、今回の浄心より「当山歴史」と題し、掲載させて頂きます。選擇寺の古き歴史を検証することにより、明日の選擇寺興隆発展、仏教伝道に繋がるものと存じます。
 初回は、「本尊由来記」です。漢文でありますので、読みやすい、書き下しにしました。当山のご本尊様が、どの様に伝わったかが、記されています。


本 尊 由 来 記

 『当本尊阿弥陀如来は、慈覚大師の御作なり。当山二十三世仰譽珂春上人、昔上所に安置これ在る本尊、至って小仏故、伽藍に応ぜざれば、深くこれを悲嘆す。
 この上人と奥沢珂碩上人とは、師資の間を以っての故に、或る時師珂碩上人の御所に詣で、自ら年来不本意の趣を述べ、その悲しみを談話す。悩みて相応の尊像を師に請う。
 刻作者師の珂碩上人答えて曰く、「汝の志願の深厚なるを感ずと雖も、余、近頃勧化に遑(いとま)あらず。その所望に任すこと能わず。吾が内仏の脇殿に安置するところの弥陀尊像は、慈覚大師の作にして、これ霊験顕らたかなり。余、先年或る信者より伝えるところを得たるなり。汝の志願に報ゆるに、この尊像を以って譲与す。汝この尊像を奉持し、倍当に自行を勤め普く化他を成すべし。然りと雖も、余伝うる時を得てより破損甚大なり。未だ修復の本意を遂げず。以って譲与たるの次いで、汝これを修復すべし。」
 珂春上人乃ち尊像を仏工に投じ、再興の労を望む。また師と共に談話の御時、珂春上人伝わく、「再興を任すの序(つい)で、普く自利々他のため、この仏頭の中に、老師の御名号を希望す。」
 師曰く、「祐天師はその行業余に勝る。芝嶽了也大僧正は当時の磧徳たり。当に此等の師のその名号を乞うべし。」
 即ち師説に任せてその望みを遂げ、またまた老師の御名号を請いて、それを御腹入りとなす。即ち当寺に安置し奉るなり。尓りと雖も、御台座等未だその功を成さずして、珂春上人病床に臥し、間もなく遷化するなり、時至らざるか、その後五十余年の間、その侭(まま)これ在る故に、またまた破損す。爰に二十六世進譽察冏、ある時当山の記録を枚挙(まいきょ)して、当本尊由来の霊験を窺(うかが)い得たり。且つ聞き伝えを老師上人の趣に得たり。悉く以って捨て置くべき事にあたず。深く嘆息す。
 しかる後世話人頭鈴木儀平に対しこの事を談話し檀越中へ相談を遂げ、御破損の箇所、且つ御台座再興し安置し奉るなり。
 また檀越の或る信者、珂春上人の御名号一幅を寄付し、以って御腹入りとなす。また老師迎譽察道上人は、当山中興とこれを仰ぐ。この故に御名号一幅御腹入りとなす。仍って再興の本懐これを遂げ畢んぬ。
  宝暦六丙子年七月
     当山二十六世 進譽  花押 』



以上、現本尊が伝わった経緯です。簡単に要約すると、

 「元禄時代、当山二十三世の珂春上人代に師珂碩上人より賜ったとあり、破損しているのでこの際だから修復をし、仏頭に、芝増上寺の了也大僧正と祐天上人のお名号をお書き頂くことを師が支持、両者のお名号を頂くと、やはり、師のお名号も発願し賜り、本尊の体内の中に納めた。しかし、台座まで修復しなうちに、珂春上人ご往生、その後五十余年の歳月が流れ、又破損してしまった。二十六世を継いだ、察冏上人は、先代で老僧の察道上人より、ご本尊の霊験あらたかなるを聞き、檀信徒のお力添えを賜り、ご本尊並びに台座をご修復した。又、先代は、当山の中興なので、察道上人のお名号、更に珂春上人のお名号も檀信徒より寄付頂き、体内に納めた。こうして、修復が終わりました。」

 ご本尊の由来が、はっきりと分かるということは寺院にとっては誠に尊いことです。このような歴史を伝えられることに感謝し、ご本尊様をお護り申し上げる次第です。


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  明治十六年の事跡

 江戸時代に於ける各諸寺院は、寺院法度の決まりはあるものの、徳川幕府より手厚く庇護されていました。大本山の芝増上寺は、寺領一万石、格式十万石とも言われ、大変な権力でありました。
 しかし、明治になり新政府のもと、所謂、「廃仏毀釈」が広まり、日本仏教界は、大弾圧をうけました。其の時、各宗派の信頼をうけて、仏教破壊の危機から救った明治の代表的仏教者が福田行誡上人です。行誡上人は、増上寺・知恩院とすすみ、浄土宗管長にも就任になりました。
 行誡上人が増上寺法主の折、房総半島へご巡錫になりました。其の時の事を、述懐し、「行誡上人全集」という本の中に、房総日記と題し、記されており、「選擇寺」へも巡錫され、詳細が掲載されております。
 今回の当山歴史については、選擇寺巡錫について、ご紹介申し上げます。
 明治十六年五月二日より五日まで滞在し、浄土宗の奥義となる、五重相伝という、布教を行いました。
 選擇寺の部分を、原文にて紙面に記しますので、ご一読頂ければ幸いです。当時の木更津村・選擇寺の様子などもふれております。


 東都部管長 大本山 増上寺
   福田行誡上人「房総日記」より
     選 擇 寺 巡 錫


『二日天気くもる、九時発足、人々見送る、三里ばかりゆきて休息、其家の少女の病気のよしにて三帰十念説教少しきかせ遣わす、明日は選擇寺にて施餓鬼願ふよし申す、午後木更津選擇寺へ着す、此近辺村々みなきれいなり、貧村はすくなきさまなり、木更津はよき町なり、此にて三百人ばかり五重願ふ、けさは一里ばかりも五六十人迎に出づ、ばゝどもはしろき手ねぐひをくびにまきて出る、田の中四五町はばゝぢゝにてつゞきつゞきくる、町町にてもみな出て見る、珍らしげなり、此寺の本尊霊仏なり、庭に牡丹おほくさけり、打開きたる庭にて見所あり、犬二ツゐる尾をふりてなづく、三日曇り雨になる、檀中門中面会、午前東岸寺へ請待法要午後某氏施餓鬼会、両人へ剃度式授与説教一座、四日曇風いみしう吹く、ひる前伝法要偈式、ひる後剃度式をはりて、夕刻檀方稲次氏へまねかれ誦経非時有之、十時帰る、五日朝より雨、弘法大師筆不動尊を写す、金五円此寺の修復料とて遣はす、今日発足すべきところ雨中につき、梁師、富津大乗寺へ先駆し、餘はみなみな逗留、其後説教剃度式等あり、夕刻雨やむ入浴、菖蒲湯なり、
     詠牡丹、(二首)
 沈香亭北草芋芋。万里橋辺落日懸。
 唯有斯花真富貴。至今千歳保嬋妍。

 魏紫蜀紅何比類。天香自染舊袈裟。
 栽培未聴祇園發。元是沈香亭北花。

六日好晴九時発足(これより富津大乗寺門前様子記事五行有)・・・・・・・・・・

 木更津をたつ時かきおく

 「発足の 時刻おくるる 牡丹かな」

住持隠居其外門中三四名富津まで送る、』
 選擇寺記事はここまでです。   以上

 明治の高僧、行誡上人は、房総半島を徒歩又は、海路で巡錫されました。当寺に於いて、五重相伝という、お念仏の奥義をお伝えする、仏事を化導され、受者は参百名もいました。皆さんの先祖の方々です。上人は、姉崎から徒歩にて木更津に入られ、当寺に到着。この辺り、貧村は少なく木更津はよい町であると述べ、首に白い手ぬぐいをまいて、お出迎えしたようです。当時の風習でしょう。
 又、当寺の庭園には、牡丹が綺麗に咲きほこっていると。今の境内のどこのあたりなのでしょうか。更にご本尊が霊験あらたかで、伽藍の修復料として行誡上人より五円賜った、とも記されています。滞在中、東岸寺に参詣及び当寺檀徒の稲次様(稲次元知東渓の子孫)のお宅に伺い、夕食を頂いたようです。
 更に、弘法大師筆の不動尊図を写すとあります。今どこにあるか分かりません。あれば、国宝級ということになりますが?そして、次のお寺に出発する日、雨が降り、一日延びたとあり、当寺の最後の晩は、菖蒲湯に入浴されました。お風呂のことまで大変気をつかったことでしょう。
 明治十六年にこのようなできごとがありました。当時選擇寺では、上へ下へと、大騒ぎであったことでしょう。それにしても行誡上人は、当寺の牡丹が大変心に残られたのでしょう。漢詩にて二首、更に、お別れに、一句詠まれております。「打開きたる庭にて見所あり」と、記しています。
 丹精こめた庭園があり、そこに牡丹が沢山植えられていた事で、それはそれは、見事な花が咲いていたのでしょう。
最後の行、住持とは、当寺三十四代定然上人、隠居とは、三十三代大禅上人です。
 今から壱百二十余年前の歴史の一頁です。
 (漢詩の訳は、機会をみつけご説明申し上げたいと思います。)



*写真は当寺巡錫の折賜りし梵字名号。


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  保科正重と母の墓

 今回は、当寺境内墓地に、寛永年間に、葬られ奉安されています「保科正重と母」についてご紹介申し上げます。
 このことについては、平成十四年三月の浄心(第ニ四九号)で記しましたが、シリーズ「当山歴史」に於いて明記しなければならない事と存じております。紙面内容は、ほぼ同文なので重複致しますが、ご了承下さい。
 又、新たに、選擇寺に残る「古文書」の中に、保科家に関する記載を発見致しました。文末に、現代語訳(本分は漢文)にて、記します。保科家に関する事をご存知の方は、是非ご連絡頂ければ幸いです。

 信州高遠城主保科正直(まさなお)の側室小日向氏女(母)と正直次男正重のお墓であります。
 正重は幼名を靭負(にんぶ)といい、後に壹岐守(いきのかみ)を名乗ったとされていますが、出生年月や任官年月等不詳であります。
 保科系譜の中に、京都で病没したと記されていますが、江戸の説もあります。没年月は墓所に、寛永十三年八月二十三日と刻まれています。

 母は信州松本の小日向家に生を受け、正直の側室となり、一子正重を授かりますが、小日向家は、徳川家と複雑な関係にある、真田家を出自とする家柄であり、その母をもつ正重は幕府より冷遇されていたようです。そして、成人し妻を迎えますが、立家できず、この世を去ります。(没年齢不詳)子を授かるのですが女子であり、残念ながら、お家断絶となります。母は、正重没三年後の寛永十六年七月二十五日に没しています。
 当山を供養の場所と定めた理由の記録は残っていませんが、正重の異腹の弟、保科正貞は、望陀郡内(この地域)に領地を持っていることから、弟正貞(まささだ)を頼ったものと考えられ、或いは、没するまでの数年、当山境内の一角に正貞の援助を受け、正重と母が居住され、没して当山に埋葬されたとも考えられます。
 又墓所中央に、観音石像が安置されているが、正重親子の供養仏として、当時の当山住職か、正重弟正貞、又は兄正光養子正之(まさゆき)が奉安したものと思われます。
 尚、正重の兄保科正光(正室の子)は、父正直の後継として高遠藩三万石の城主となり、二代将軍御落胤の幸松(後に正之)を養育し正光没後幸松より保科正之と名を改め藩主となり、異腹の兄は三代将軍家光に重用され、山形藩を経て会津藩へ転封、二十三万石の大大名となり、四代将軍家綱の後見職として、幕閣の中枢を担い、徳川家の礎を築くのであります。

 又弟保科正貞は、家康の異父同腹妹が母であったために、徳川家より庇護を受け、飯野藩一万七千石の初代藩主となり、更に創始した家系が保科氏の本家となりました。
 正重の兄正光、弟正貞は、大名となり藩主の座に就きますが、次男正重のみ不遇の生涯をおくり、母共々当山境内墓所に葬られています。 「保科氏八〇〇年史」参照
 以上のような、経緯や歴史がございます。


 次に、選擇寺古文書の「保科家」に関する文書を記します。   
 「御石塔に書かれた実名・名乗りの問い合わせに関して調査したところ、保科壱岐守正直様とありました。それ以外に当寺で思い当たるものはございません。寛延武鑑を見たところ、これに関しては御本国信州保科弾正忠正直様とあります。また正興様にも保科弾正忠様とあります。ご兄弟お二人とも弾正忠様と申すことはないと思われます。けれども、保科家は正直様から起こったため、正興様へ実名を与えられ、その上で正直様を壱岐守様と申されたように存じます。かつまた、右の石塔は、当寺の檀家の中に当年九十歳になる者が三人存命しております。彼らに話を聞いたところによると、その石塔に関しては、信州の保科家によって氏寺に引き取られた由に存じます。したがって、御本家様も御本国が信州ということなので、正しく正直様の石塔であろうと推察します。もしくは、正興様のご厚志によって正直様の石塔がたてられたのかもしれません。」
 この様な古文書が選擇寺に残っています。
 飯野藩保科本家の問い合わせの様です。選擇寺に、保科正直の石塔が有り、本国高遠保科家の菩提寺に改葬した事が記載されています。この文書は、元禄以後のものであろうと推察致しています。
 かつては、正重の父正直の墓所も当寺に奉安されていた事が、文書から判ります。
 現在、正直の墓所は、伊那市の建福寺に奉安されていますが、元禄三年に再建されたもので、選擇寺にあったものと違うようです。


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  会津藩主 松平容敬(まつだいらかたたか)候 選擇寺を本陣とし宿泊する

 会津藩二十三万石第八代藩主松平容敬侯は幕末に、幕命により江戸湾防備(房総側)を担っていました。昨年は、大河ドラマ「天璋院篤姫」が大流行致しましたが、その篤姫が輿入れする数年前の事、嘉永元年二月(一八四八年)に、藩主容敬侯自ら、どの様な状況なのか、当地方の巡視を行いました。今回は、容敬侯が残された「日記」の一部を紹介し、「当山歴史」と致します。
 当時の時代背景は、皆様もよくご承知の事と存じます。外国船が襲来、開国・通商問題で大揺れの時です。容敬侯は、この巡視行程を日記に記していました。「松平容敬 手控 房総御備場御用一件」全五巻からなるもので、その一部に書されています。
 この書物を、研究されたのは、筑紫敏夫先生です。先生は、約二十年前、容敬侯が房総巡視のおり「選擇寺さんへ宿泊されていますよ。」と、教えてくれた方です。その後、時の流れ中に、宿泊された事だけは、承知しておりましたが、今般、河野十四生様(上記容敬侯肖像画提供)が、房総時事新聞に「木更津は幕末会津藩領だった」を連載され、河野様に問い合わせをさせて頂き、日記を知る事となり、房総巡視の件に付き、ご教示賜りました。
 河野様は、その後、「連載を終えて」上下を、同紙に投稿掲載され、住職(私)の質問に答えられ、容敬侯巡視行程をご紹介されました。又、その日記の一部をコピー、更に、筑紫先生の研究論文「江戸湾防備と会津藩主の房総巡見記」のコピーをお送り賜り、大凡の事を知る事が出来ました。容敬侯は木更津宿にて選擇寺を本陣とし、当寺に宿泊(往復二泊)しています。
 紙面の都合上、二日・三日・四日の日記を紹介し、更に現代語訳に併せ、若干お調べ致しました事を加え、ご説明致します。
 行程は、嘉永元年二月二日、江戸会津藩上屋敷(現在の皇居桜田門外広場の前付近)を出発して、陸路、江戸湾沿いに南下し、富津台場と竹岡台場を中心に巡見し、十四日に、江戸上屋敷に帰着しています。容敬侯の房総巡見の一行は五百人を越える大行列でした。二十三万石の大大名、当然といえば当然ですが、さすがに、徳川家親藩としての、面目を保っての大名行列であったと存じます。それでは、一行の足取り、日記を紹介し、次に現代語訳で書します。

嘉永元年戌申
 二月二日 明六ツ時巳前共触(揃)明出起、乗馬山下ニ而乗輿千住小休中川之渡新宿休ヘ四ツ時前着、小岩小休市川ニ渡是ヨリ道筋左右梨子樹多シ、国府台左ニ見ユル八幡迄歩行、是ヨリ乗馬村中右ニ八幡不知森有舟橋小休、左ニ宿中大神宮有検見川宿、七ツ半時着々後家老用人罷出
 三日 快晴昼前風夕陰小雨、七ツ半時検見川を起磯辺ヲ過ル、此夜ハしらしらと明行波静ニ而眺望誠ニ宜寒川ヘ小休、是ヨリ歩行浜辺ヨリ着路誠ニよく、春霞棚引漁舟多く見ゆる、是亦蛑を取舟也とそ、富士山遥ニ見渡り海之面浪平地
 明けわたる 浪静なる朝なきに 遥かに志るき 雪のふしの禰
 是ヨリ歩行八幡小休此所休佐倉領之由、是ヨリ馬道脇ニ塩釜アリ風景よし五井休、四ツ時過着宿地ヨリ少し行養老川アリ
   養老川
 たらちめの 為にや汲ん 老らくを 
 やしなふ川の 流也けり
 姉ヶ崎ヨリ浜通左ハ山ニ而路狭き所あり、姉ヶ崎小休、海岸の路狭き所あり、今井村之先海中ニ鳥居あり井戸二ツ、一ツハ九尺四方形一ツハ円井、清水湧出ル八幡御洗水と唱ふ、奈良輪小休、同所ヨリ八丁程先市場川、舟橋道ハ渡之由也、是ヨリ乗馬木更津宿七ツ半時着、鶏頭山選擇寺
 暮過御代官岩田鍬三郎手代ヨリ房州鹿野麓ニ当り矢与有之段届有之
 四日 明七ツ半時、供揃木更津引暁起浜通り路狭キ所、波荒キ節者往来出来灘場有之、山路ヘ掛り此辺松一面ニ植立アリ、中野村網屋小休小糸川渡之所橋掛候、前久保村ト伝所ヨリ新堀領分也、飯野陣屋前通行西川村手前領分境傍に杭有、同所名主宅小休、是ヨリ乗馬ニ而富津町通行、此所ヘ同所詰之諸士為出迎出ル、台場ヘ至り、多門并武器浜辺大銃、遠見る番所之番所へ参り、権兵衛始召出、夕弁当給て、夫ヨリ又又遠見番所へ至り、始終十大夫附添、彼是尋之、夫ヨリ潮合宜旨ニ而出洲之様子見之直乗船、半道斗も出ル、艫手修行之諸士以下之者迄、水主ニ交り操艫、夫ヨリ炊屋見之、又乗馬ニ而陣屋ヘ相越、家老召出、目付両人召出宴有之、番頭両人組頭物頭起四郎忰十大夫忰郡奉行目付用人善蔵近侍等出ル十大夫ヨリ吸物あり目通酒肴出之、
 名にしおふ ふつの剣の 御稜威もて 
 ことくに人の きもをひやさん

現 代 語 訳

 嘉永元年戌申(つちのえさる・一八四八年)
 二月二日 
 明け六ツ時(日の出前:午前六時頃)に供触れ(供廻りの先触れ)。日が昇ってから出発。馬に乗って行くが山下から輿に乗り千住で小休止。中川の渡しで小休止。新宿へ四ツ時(午前十時頃)前に到着。小岩で小休止し市川に渡る。(江戸川に架かる市川橋を渡る。)この辺りから道の左右に梨の果樹が多く植えられている。(今でも市川市は梨の産地であります。)国府台を左手に見て八幡まで徒歩。ここから馬に乗る。村の中を通って行くと右手に八幡不知森(やわたしらずのもり・禁足地。入ると二度と出てこられないという伝承がある。八幡の藪知らずともいう。諸伝説有り。)がある。船橋で小休止。左手に船橋宿の中心である大神宮(正式名称は意富比神社・おおひしじんじゃ・通称船橋大神宮)がある。検見川宿に七ツ半時(午後五時頃)に到着。到着後、家老と用人が来る。
 二月三日
 快晴。昼前に風が吹き、夕方に少し雨が降る。七ツ半時(午前五時頃)に検見川(宿)を出発し磯辺を過ぎる。夜は次第に明けていき、波も静かでとても良い景色だ。寒川で小休止。ここから徒歩で行く。浜辺なのでとても歩きやすく、春霞がたなびく中、漁をする船が多く見える。これらは蛑(ぼう・わたりがにの事)を取る船だそうだ。富士山を仰ぎ見る。穏やかな海面は平かである。
 明けわたる 浪静なる朝なきに 遥かに志るき 雪のふしの禰
(夜が白々とあける、春霞がたなびく、遠くに日本一の富士山。嶺に雪がかかる。浪は誠に静かである。何と平和なんだろう。諸外国船の襲来を防ぐ為、房総防備を担っているのが、嘘のような、絶景である。容敬侯の心中はいかばかりか。)
 ここから徒歩で行く。八幡で小休止。この地は佐倉領(幕府・旗本領ではないか?)であるそうだ。ここからは馬に乗る。道の脇には塩釜(製塩のためのかまど・この近辺の海岸線には、塩田があったそうである。)があり風景がよい。五井で休憩。四ツ時(午前十時頃)過ぎに到着。五井宿より少し先に行くと養老川がある。
   養老川
 たらちめの 為にや汲ん 老らくを やしなふ川の 流也けり
 (大地に稔が有るからこそ、生きる事が出来る私達、その稔は水を以って成就する。養老の名の付く川故に、一句詠んだのであろう。所謂、水がお酒になったという「養老孝子伝説」を踏まえている「たらちね」は母親或いは親にかかる枕詞。)
 姉ヶ崎から浜通りを行く。左手は山で道の狭いところがある。姉ヶ崎で小休止。海岸の道は狭いところがある。今井村の先に海の中に鳥居があり井戸が二つある。一つは九尺四方の方形、もう一つは円形。ここから清水が湧き出て八幡御手洗(みたらし)といわれている。(海中の鳥居のある場所を「生の明神」と言い、広旛八幡神社の分社であろう。そこより、こんこんと清泉が湧き出していたそうである。今では、その地は埋立てになっています。君津郡誌参照)奈良輪で小休止。ここより八丁(八七二m位)程先が市場川。(市場川とは、小櫃川の事で、舟に板を渡して、渡ったという事ではなかろうか。)小櫃川を渡る。ここより木更津宿まで馬に乗って行く。七ツ半時(午後五時頃)に鶏頭山選擇寺に到着。
 (ここで、容敬侯の宿泊する本陣、選擇寺の名前が出てくる。宿泊した様子など、書されていないのが、誠に残念に思う。帰りの十二日も当寺に宿泊。)
 暮(午後五時過)過ぎ、代官岩田鍬三郎の手代より房州鹿野山麓に当り矢を与えると届があった。(この一文の意味わからず。)
 二月四日
 明七ツ半時(午前五時頃)一同は木更津を出発した。暁起(あかつきおき・夜明け前に起きること)浜通りの道が狭いところでは波が荒い時だと行き来できない箇所がある。山道へかかるとこの辺り一面には松が植えられている。中野村網屋にて小休止。小糸川の渡しに橋を掛けて渡る。前久保村というところから新堀領(保科家飯野藩領、保科家は会津藩松平家と親戚)である。飯野陣屋(保科家藩主の居所)の前を通る。西川村手前の所領の境界には杭が立てられている。(ここより会津領)ここの名主宅にて小休止。ここより馬に乗って富津町を通る。ここへ富津町詰の諸子が出迎えにくる。台場に至るや多門并武器、浜辺には大銃。遠見番所(とおみばんしょ・密貿易や異国船を見張る番所)の番所に行き、権兵衛らを召出す。夕食をまかない、それよりまたまた遠見番所に行く。常に十人の士大夫が付添いあれこれ尋ねる。そして潮の具合が良いので出洲(出港)の様子を見る。直ちに乗船して半道ばかりも出る。艫手修行(ろしゅ、舟のろを操る訓練)の諸士以下の者まで水主(水夫)と一緒に艫を操る。そして炊屋(かしきや・炊事場)を見る。馬に乗って陣屋に戻り、家老を召出す。目付両人を召出して宴席を催す。番頭両人、組頭、物頭、起四郎忰、十大夫忰、郡奉行、目付、用人、善蔵、近侍等が出席。十人の士大夫より吸い物がでる。始めから終わりまでの酒肴を出す。
 名にしおふ ふつの剣の 御稜威もて 
 ことくに人の きもをひやさん
 (天下に名高い、ふつの剣のご威光を以って、諸外国を討払そうぞ。容敬侯少々お酒も入り、一句詠んだのではないか。
 御稜威「みいつ」と読み、ご威光の事、布都御霊剣「ふつのみたまのつるぎ」と読む。神武東征の折、ナガスネヒコとの戦いに勝利をもたらした剣であることから、荒ぶる神を斥ける力をもつとされる。それ故に外夷の「きも」を冷やすのに適した剣だとして詠まれているのではないだろうか。また布都御霊剣の別名は甕布都神という。「みかふつのかみ」と読む。この甕「みか」とは煮炊きや貯蔵に使われる瓶、或いは酒をいれる瓶子「とっくり」のことであるから、前文(宴席の記述)をうけての歌であるとも解釈できる。場所が富津で「ふつの剣」も、おもしろい。)
*三首の和歌は、さすがに大名。藩主としての教養の高さを感じます。

 以上であります。まだ巡視は続くのですが、今回は、ここまでです。嘉永元年二月に、当地方に、会津藩主の房総巡視がありました。君津郡誌にもこの事は、記されていません。当時、この様な、出来事がありましたが、正に今は昔であります。
 木更津への往復二日間の宿泊。五百人の大所帯をどの様に、ご接待したのでしょうか。勿論分散して宿泊をした事でしょう。又、藩主容敬侯が、選擇寺を本陣としたのは、当寺が広大な寺域を有し、寺格・格式共に高く、藩主が本陣として宿泊するに相応しい所との、ご判断でありましょう。何れにしても、選擇寺にとっては、誠に光栄の事であったに違いありませんが、当寺にその様子等の文献が無いのが本当に残念なことです。


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  木更津県権令「柴原 和」選擇寺を宿舎とする

今から135年前の、明治4年11月、上総・安房両国に木更津県を置いて、権令(県知事)に柴原和がなりました。庁舎は貝渕の桜井藩主龍脇信敏の藩邸を当てました。その庁舎に毎日馬に乗って朝夕通勤していた権令の宿舎が選擇寺でした。
「権令 柴原 和は、選擇寺を宿舎し、出勤には騎馬を用いたが官員の威光はあたりをはらい、沿道の人々は土下座せんばかりであったそうだ。(中略)事跡として歴史的なのは「育児告諭」を発し堕胎嬰児殺しを禁じ、これらのものを、扶育する制度を設けたこと(中略)県庁が千葉に移されて村はさびれたが、その割に人々は打撃とも考えず、かえって赤飯をたいて祝ったという。(下略・河田陽、松本斗吟{木更津}による)」
柴原和は、行政組織の整備・地方民会の開設・地租改正事業の推進・育児政策・学校教育の普及等に力を注ぎ、兵庫県令神田孝平、滋賀県令松田道之とともに「三県令」のひとりにあげられるほど注目されました。 又、現在の福祉行政とも言うべき政策もとりました。(相互扶助)

 選擇寺に宿舎が置かれたのは、当寺が木更津町の中央に位置し、県庁に通勤しやすく、広大な寺域及び伽藍を有し、木更津県の首長が居住するに相応しい寺格の寺院であったからだと考えられます。柴原和が赴任していた2年間は、当寺の書院客殿は、執務室、客室、官員室、警護室、寝室等に使用されていました。又、柴原一人ではなく、上級補佐官、官員、護衛官、付人等常時十数名が寄宿を共にしていたと思われます。
柴原和が宿舎としていた2年間は、さぞ大変だったことでしょう。永い歴史の中には、色々な事があります。
又当寺に柴原和が、書した詩書一幅が残されております。一昨年、百回忌を迎え、追善菩提の為、修復致しました。
今回で3回目の「当山歴史」は、木更津県権令柴原和(県知事)の宿舎が選擇寺であった事と、次にご紹介致します柴原が残した、詩書についてお話申し上げたいと存じます。


(現代語訳) 
ふと、あたりを見回すと、不吉な気が山河に満ちあふれている。
私は今、苦しい立場に置かれているが、それをどうしよう。
長い間考えても、良策が浮かばない。
英雄たちも今まで、このようにして苦しみ流した涙は、さぞ多いに違いない。
この書作は「治安策を読んだ旧作の詩」を書いたものです。
明治19年3月   名 前
(柴を此と木に分け山のきこり の和「私」と洒落ている)


【住職私見】

木更津県権令・千葉県県令として、その任に就いているが、随所に於いて、まだまだ不穏な動きも有り、不吉な予感もする。徳川の世が終焉を向かえ、新政府の下、日本国の為、県民の為に、治安の安定等、県政を担う首長として、その政策にあたっているが、中々良策がなく、政策が上手く運ばず大変苦しんでおります。しかしながら、考えてみると、往古の昔より、「一国の長」と言われる、貴族や武将の英雄諸侯も、今の私のように、万民和平の政策をすすめて行く上で、さぞ苦しみの涙を流し、悩んだに違いないことでしょう。
十数年前を振返り、国(県)を治めることに苦慮した当時、詠った詩を、明治19年3月に、選擇寺に再来し、昔を懐かしんで書したと思われる。
柴原和は何故、明治19年3月に来寺したのでしょうか。
実は、柴原和が当寺を宿舎としていた時、当寺側の世話係りをしていたのは、当時副住職の定然和尚であり、明治7年に当寺34代住職に就任しています。しかし、引退した先代の33代大禅和尚より先に、僅かに在位12年で、明治19年3月に往生されました。どこからか、当時世話をしてくれた定然和尚の遷化を聞き、御悔やみに、又柴原和赴任中、住職であった大禅和尚と久しぶりの再会を果たす為に、来寺したものと思われます。
大禅和尚と、柴原和は、いったいどのような会話が交わされたのだろうか。文献が残っておらず、今では想像するほかありません。選擇寺を提供した大禅和尚、徳川領の木更津に、安房・上総両国の長官として赴任してきた柴原和、2年という短い期間だったが、まさしく激動の2年であったに違いない。
詩の初句にとあり、自分の
身辺に、ただならぬものを感じ、身の危険をも思わせる句であります。明治4年には、まだ徳川復興を願う民衆が少なからずいたに違いありません。正に生死を懸けて、その職に就任したのでしょう。
大禅和尚に託し、選擇寺に奉納した、当寺に残るこの柴原和染筆の詩書を拝する度に、そのご苦労が偲ばれます。万民和平の行政を指揮した、木更津県権令柴原和の当時のありのままの心が詠われた詩書一幅です。

柴原 和 略歴  
柴原和は、天保3年(1832)兵庫県龍野市(龍野藩)の下級藩士の家に生まれましたが、幼少より学問を好み長じては、龍野藩藩校の塾長に抜てきされ、才能を遺憾なく発揮し、明治2年には、政府から待詔下院出仕を命ぜられ、次に甲府県大参事、岩花県(現群馬県)大参事、宮谷県権知事そして、木更津県権令(印旛県権令兼務)初代千葉県令、更に、元老院議官、山形・香川両県知事、貴族院議員を歴任し、正三位勲二等を受章し、明治38年11月29日、73歳にて没しています。


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 幕末戊辰戦争 木更津の合戦
「上総国木更津本営徳川義軍府選擇寺に本陣を置く」

江戸幕末の選擇寺についてご紹介申し上げたいと存じます。上記の通り、当寺は幕末に徳川義軍府の本陣に当てられました。 当寺が本陣に相応しい寺格を有し、又大勢の武将を収容できる大伽藍もあってのことだと考えられます。
戊辰戦争は、「鳥羽伏見の戦い」から端を発し、最後、「箱館戦争」にて朝廷軍に鎮圧されるまでをいい、当時全国各地で大小の合戦がありました。木更津もその渦中に入り、旧市街地は、戦火は免れましたが、真里谷「真如寺」が焼討ちにあい、木更津地方での戦いは終わりました。
今回は、重城保が記した「日記」を基に、当時の様子をお伝えし、「当山における幕末の事跡」をご紹介申し上げます。
重城保は、天保4年(1833)に、岩根村高柳に代々名主で豪族の家に生まれました。 長じて、千葉県議会の初代公選議長に就任しています。保は、天保年間より明治末まで、日記を残しおり、その日記を製本し、発行致しましたのが、10巻からなる「重城保日記」です。その第3巻に「徳川義軍府木更津本陣選擇寺」が記載されています。その文を、口語訳にてご紹介しましょう。

慶応4年 閏4月1日

「天気快晴。昼前に御伝馬札と昨日大鳥居村から真里谷まで付き送った賃金、下された分一軒前一貫文を払う。 昼少し前に富津磯崎の息子と東嶽の弟子が石町孫吉の手紙をもって訪ねてきた。(中略) 夕方には風呂に入り、早めに床に就いていたところ、小平翁があわただしく戸を叩き、 選択寺の本陣より重役が出発されたことを告げた。あわただしく起きて、お迎えのあかりを点し、お茶を差し上げた。義府の軍用が切迫したためこの村の有志へ相談し頼りたいとの仰せを聞く。明朝、有志を集めじっくりと相談した上でお答えしますと申し上げて別れた。門前までお送りして、すぐに床に就いた。涙がでてしまった。(後略)」

徳川義軍府の本陣、選擇寺より重役が来られ、軍用金が切迫しているから、何とかしてほしいという事であり、保は、徳川義軍が、その様な状況になっているのかと思うと、涙が出てしまった。と、大変哀しんでいる。当時木更津は、徳川再興を願う人々が大半を占めていました。(木更津の地は、天領であり、旗本・御家人が所領しておりました。)

慶応4年 閏4月2日

「快晴。早くに起きて、後原・神崎を呼んで昨夜の件を相談し、その他、新造・小右衛門にも相談する。まず決定したのは、後原・神崎・自分で、それぞれ五〇俵のあわせて百五〇俵、新蔵二〇俵、小右衛門一〇俵、合計一八〇俵を拠出するということで、
選択寺まで出かけた。(中略)         昼少し前、本営(選擇寺)に着く。

しばらく勝手に控えていると、程なくして乃木文迪がやってきた。話し合いの結果、村方で三〇〇百俵を拠出することに決定した。このことを記した書類を渡し、齊藤様・井田様への面会をお願いした。ここで米を金にして拠出してほしいとのお話しがあった。吾妻あたりへそれぞれが掛け合って帰ることにしよう。(後略)」

保と村の有志とが相談し、300俵を義軍府へ献上することを決めた旨の書類を持参し、本営の選擇寺にて、ご重役の、斉藤様・井田様へ直接面会をし、又米を金にして欲しいと、あります。

慶応4年 閏4月3日

「快晴。早朝より不動院へ寄る。それぞれが集めた金をまとめてみる。 だんだんと人がやってきて雑務におわれていると、このような手数もでき、普段であったらとても迷惑だと思うのだろうが、皆が勇み進んで三〇〇俵の拠出ができることは実に晃廟の余光と言えるだろう。
今日は幸右・綿川(以上、人名)ら一同が木更津へ出て、後から次左衛門・角兵衛が追いかけた。八右衛門が五右衛門一人の名前をのせて貰いたいといってきたので、万清へ寄って帳面をなおし選択寺へでかけた。
今日は齊藤様・井田様・川端様のいずれもお留守であったので、仕方なく万清へ戻ると、(中略)
途中で、北の下総の方角で大火が見えた。行徳・船橋のあたりに兵火があったのだろう。 師匠のところへ寄る。皆がいて色々な話しがでた。私は早めに帰り床に就いた。 今日丸一より金五〇円を借用。今日富津の御陣屋へ義軍の軍勢が押し寄せたとのこと。先手は阿部候、二番手は大河内。小久保道より林候。そのほか人見川より押し寄せたとのこと。夕方には降伏した人があったと聞こえてきたがどうであろうか。」

皆迷惑な事だと思うが、徳川家のため、進んで300俵拠出してくれた。選擇寺へ出かけるが斉藤様他留守である。と、軍勢の様子等記している。

慶応4年 閏4月4日

「激しい風雨。今日の朝、幸右衛門殿が木更津へ参上して井田様のお出ましを伺った。
ここから(選択寺)使いがきて、ちょっと選択寺へきてもらえぬかといってきた。 師匠のところまで出かけ、綿川に頼んでいってきてもらう。とても風雨が激しいためである。
夕方まで衝岳亭にいた。昨日の夜、船橋大神宮様が兵火にかかり、味方が敗れたとの□□を伝え聞いた。
夜になって幸右・綿川が帰ってきた。井田様の様子がことのほか嬉しそうで、皆によろしく申し聞かせよとの伝言を賜り感激のあまり涙した。 奈良輪松屋・中村喜平ニがやってくる。初更まで酒を飲む。演劇に関する話題がでた。」

この日、船橋大神宮で合戦があり、徳川軍は、敗北した。井田様の喜びは、米を金に換えることが出来た事であろう。

慶応4年 閏4月7日

「曇り。朝のうちに万石酒屋に書状を出して、本日米五〇俵を預けたい旨を申し入れる。承知の趣をもって源奴(人名か)が帰ってきた。神崎より馬を借りて二匹にて(米を)運ぶ。 本日、五井川・八幡の間で戦争とのこと。大砲がおおいに響いていた。
東様(東嶽あるいは東城か)へ手紙を添えて一二俵預かる。大海道まで参上する。敗れた兵士がだんだんと木更津まで引き返してくる。 石橋鎗太郎という小隊の司令がひとり御出でになり、今日の戦いは味方の大敗北であるとのこと、江戸へむけた船に乗るとのこと。昼飯などをだす。服装をかえたいと言われたので頼むと、袷一枚・単物・古い袴をあげた。金二円をさしだしたが受け取らなかった。お茶代一00文のみ頂いた。兵が年寄りであったため吾妻まで送る。それぞれ申し合わせて林屋(店名)まで行く。敗軍の話しが御□になった。今朝平野鐘吉殿の隊伍の中から早朝に八幡宿に攻め入った。その時は味方が優勢であったが、官軍が蒸気船で五井川より後口にあがり、味方には応援の兵はなかった。川を渡って引き返そうとしたところでさんざんに敗れた。
先だって私の家に泊まっていた池田鐘吉という豪傑も討ち死にしたとのこと。もっとも敵の首を三つばかり討ち取ったとのこと。総督福田八郎右衛門様、そのほか増田直八郎様、姉ヶ崎に陣取っていたが、早速兵を繰り出し、君塚というところで苦戦し、増田は足を打たれ、福田も傷を負ったとのこと。特に死にいたるものではないが、敗軍のまとめとして行き届かず。総督そのほか真理谷にむけて引き上げたとのこと。山田已之助という者が油屋まで落ちてきた。所々に落人があって、いずれも手当てをして江戸に向けた船にのせることとなった。姉崎水野公の陣屋へ火をかけ立ち退いたとのこと。火猶の内夜に新蔵のところが会所になった。皆(この火付けには)眉をひそめ、村人に残らず声をかけ火付け盗賊を防ぐための手配をした。皆の夜食を出した分は神崎が白米三俵を出してくれた

生々しい戦いの様子が記されている。徳川義軍の敗北が色濃くなってきた。苦戦した事なども記されています。総督の福田八郎右衛門様も負傷したとの事。選擇寺についての記載はありませんが、当時の合戦の様子が細かに書かれています。

慶応4年 閏4月8日

「(前略)官軍はもはや木更津にむけて進軍している。夕方までにおよそ一千人が通っていくことが予想される。切歯扼腕の事柄である。(中略)夜が深まってから林候の陣屋二ヶ所から出火。真理谷真如寺から出火。」

8日の日記だが、今日までに船橋・姉崎・五井と戦いに敗れ、木更津に朝廷軍が千人も攻めてくると言う、本陣も選擇寺から真如寺に移りましたが、その本陣も焼討ちにあい又、請西藩陣屋からも出火とあり、「切歯扼腕」と、述べています。その後、徳川義軍は「義軍の兵士は東西南北に落ちていったようだ。」と、翌日の9日の日記に記載されております。 かくして、保の手元には、米300俵の借用証だけが残ったのであります。 時代の流れは止めることができません。その後の歴史は皆様が知るところです。本陣である選擇寺堂塔伽藍の焼討ちが無かったのは、誠に有難いことです。


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  江戸後期の幻の書家  寺本海若 てらもとかいじゃく と「 思亭記 していき 」碑について

 今回は、境内に「思亭記」という石碑が建立されています。その建立者、寺本海若と、石碑の内容(裏面の碑陰も含む)について、ご紹介致します。
寺本海若は、選擇寺檀徒、鈴木儀兵衛の長子として寛政9年(1797)木更津寺町に生まれ、翌年には一家で江戸に出て、海若は、寺本家に入り、数年後には、亀田鵬斎の門人となり学び、特に書には秀でた才能を発揮いたします。
石碑の内容も勿論の事ながら、その書体をご覧頂きたいと存じます。正面の書体は、正に鵬斎流唐様式の第一の伝承者としての、傑作と言えましょう。又、川崎大師には弘法大師作詞の「遊山慕仙詩」を大師流にて自ら碑に刻ませ、弘法大師千年遠忌に際し、奉納しています。
川崎大師に石碑建立が許されるという事は、寺本海若の名は、当寺江戸近隣に於いて、書家として、ある程度の知名度があったという事が伺える事跡でございましょう。
又、「著名な文芸家である」とも、ある書物に掲載されております。
海若は、晩年木更津に帰り、私塾を開きますが、47歳で没します。その後、時代の中に忘れ去られ、現在に至りますが、幸いにも当山に、海若建立の石碑が残っています事は、誠に有難い事です。
もう20年位長生きして頂ければ、書家としての名声は更に広がりを見せた事でしょう

君津郡々誌・木更津市史に、 寺本海若 てらもとかいじゃく について次のように記されています。

鈴木梅若 「誌史には、名前に誤りがあり大変残念です。スズキバイジャクは、誤りで、寺本海若テラモトカイジャクです。

 「鈴木梅若は木更津の人。幼にして学を好み、亀田鵬斎に学び、文をよくし、また書もよくし、兼て国学に通じていた。その著書に『雁金日記』がある。晩年郷里に家塾を建てゝ子弟を教養した。天保十三年(一八四二)歿した。享年四十七。」以上は、木更津市史にありますが、君津郡々誌よりの抜粋と、あります。
海若著の「雁金日記」に、同門の亀田綾瀬(鵬斎の長子)が、次のよう序しています。(漢文ですので現代語訳で書します。) 「海若先生は青年時代楽しんで、芳華綺麗な文を書いていた。だが、書風が一変してことごとく憤っているように激烈となり、再び変って深みがあって美しく和らいで穏やかになった。
書風が変るたびに益々優れていき、書道の技術も人に抜きんでるを得た。書道の筆の運びに優れていて、昔の名人の手本通りだったが、晩年にはありきたりのやり方を脱却して、一流派を興した。文章を作る工夫は、詩人の胸の内を知らせるものであるが、自然の法則をうかがい知る事は、いまだに難しい。
その書の技をもって相模から伊豆に入り帰ってから日記を二巻著した。その筆先は全ての現象を駆り立ててそれをユーモアにことよせる。この国の全てに彼の詩情は振るうのである。(下略)と、のべています。」
その人柄等この文章にて大凡お分かり頂いたと存じます。まだまだ、お伝え申し上げたい事もございますが、紙面の都合上、海若についてのご説明はここで止め、「思亭記」碑、並びに裏面の碑陰について、ご説明申し上げます。

 先ずは正面の、「思亭記」の内容について、現代語訳にて記します。

『教え導くことによって家はゆっくりと富んでいくものであるが、最高の教化とは、君主が経書の内容をよく理解して大臣に教えを授け、それを行う者を正当に評価することを第一歩とする。
しかし、家は益々貧しく更に10年が経ち、葬礼もきちんと執り行えず、かさねて村里に父母兄弟の葬礼を頼んだ。どれ程かの村人の憐みを失ったが、多いに助けられた。この葬礼を終えたとき役立つ木で墓をつくりその傍らで自分から求婚した。
私は以下のように考える。
「目に映るものをただそのままに感じるのだ。
武器を見れば戦い、刑罰の道具をみれば恐れ。先祖を祀る霊屋をみれば敬い、立派な邸宅を見れば安らか。
人間には好き嫌い・喜び恐れなどの感情がある。物によって感情がおこるのは、もともと、そのような理のためである。
今、高いところから松や梓のもとにある丘墳を眺めると、荒れ果てたお墓はいばらが生い茂り、けもの道がはしっている。
親を思わない者がいるだろうか。
これを思亭(思いをとどめる)と名づけたい。親は人の決して忘れ得ないものであるから。
そうであるから、立派な人物はことさらに、祀りを行う場所では溝に土盛りをして霊屋とし、家では喪服を着て先祖の命日をお祀りするのである。
悲哀の原因は親または親を思う心にあるが、それを忘れるべきであろうか。
しかしながら、自分から親に従いつくすのではあるが、従いつくすということは心をつくすということであり、心をつくすということはこれを気にしない(忘れる)ということでもある。
なにもせずに自分の親を忘れるのは、親を遠ざけるからであり、これが亭(とどめる)の理由である。

君主の子孫がこの亭に登るとき、親への思いを忘れることがあるだろうか。
親のとても広い心に従って、親を思う気持ちが興らないことがあるだろうか。」
君主は仰った。
「あなたの考えはとても悠長であるが、私の望むところでもある。だが、子孫の才能や徳行は劣っていたり優れていたりして、その親への思いは異なるだろう。ためらいがないとは言い切れない。質素であることを野暮であると思い、墓の木をみて薪であると思い、その丘墳に登れば納められているものを暴こうと思うとも考えられる。」
ここまでいって君主は恐れ慄き涙をながし、声をあげて泣きながら、
「子孫よ、彼は私のためにこれを記してくれたのである。」
と仰った。
「君主の子孫にこの文章を暗誦させれば、その美しきを見て勤めと思い、その悪しきを見て戒めと思うでしょう。それを許可していただけますか。」
君主は彼を抱きしめて感謝して仰った。
「許可する」
このようにしてこれを記したのである。

文政十年丁亥冬十一月
海若寺本永謹書並建』

 この「思亭記」は、文政10年(1827)に海若が書し建立致しました。詩の作者は、中国宋代の役人、陳之道で、その教養の基盤となるのは「儒教」です。儒教に精通していないと中々理解するのが難しいと思いますが、詳しくは、又別の機会にお話申し上げるとして、ここでは、次のようにご理解いただければ幸いです。
即ち、「思亭記は基本的に君主と臣下の会話という形をとり、臣下が君主に、そのあり方を教えさとすといった内容となっています。その諭告の内容が先祖の祀り方についてです。
思亭記は、「親を思う心の大切さ」を繰り返し説きます。ですから、思亭記は君主と臣下の会話という形を借りた、子孫への訓告であるのです。

 *中国の墓地について、論語に次のようあります。
「生にはこれに事(つか)うるに礼をもってし、死にはこれを葬るに礼をもってし、これを祀るに礼をもってす」
という言葉があります。これは、生者に仕えるごとくに死者にも仕える、という考え方です。このような中国人が先祖のお墓に参るのは清明節(四月五日前後)。ここで墓を修復し、整理し、草を刈り、土を盛ります。ここで土を盛らず、先祖を祀る人がいなければ、跡を継ぐ子孫が絶えてしまった家とみなされてしまうのです。 ですから中国人は、清明節に墓を掃き清め先祖を祀らない者は、死後に豚や犬になる、と非難されるとの事です。

 以上の様になりますが、その内容に合わせ、鵬斎流唐様式の書体を特に、覧頂きたいと存じます。
次に、裏面の碑陰について記します。碑陰には2つの文が刻まれています。
先ず一つには、亀田綾瀬の撰にて、時岡公光が書しています。綾瀬は、鵬斎の長子にして、儒学者・書家で、鵬斎門流を継承します。亀田鴬谷(おうこく)は、鵬斎の孫に当たります。綾瀬による、この文章は、選擇寺がどのような寺院か、そして、海若の人となり、思亭記を建立した理由等が、簡潔に紹介されています。

現代語訳に致しますと、

『上総の望陀郡、木更津 鶏頭山選擇寺 代々の住職はすぐれた人柄である。その志は高く、積極的に仏の教えを説いている。
ほんとうに日本における有数のお寺である。
選択寺の延宝六年(一六七八)からの檀越で木更津に住む鈴木兵衛門が山門をでてすぐの所に祠堂を建て、祖先の位牌をお納めしていた。
そのためか近い世の子孫が絶えたとは聞いていない。この兵衛門から五代のちの子孫 儀兵衛のときに江戸にでて本船町(現在の日本橋室町一丁目の東側)に住むようになった。この儀兵衛には五人の子があり、長男を永といった。家を出て寺本氏を継ぎ、新川(現在の中央区新川)に住んだ。
永は自ら海若と号し、また砕墨とも号した。砕墨の天から授けられた資質は高く、書道を学ぶにあたって、はじめは南嶽大師を規範とし、つづいて唐の時代のさまざまな流派をめぐり、最後は過去の立派な人物に従った。学問の努力を積み重ねることを楽しみとし、それを自分の根本とした。それにより、彼のこころとわざは状況に応じてそれにふさわしいかたちとなり、無限の広がりをみせた。そのおもいがあらわれて、ひとつの流派を形成するに至った。
砕墨はかつて陳之道の『思亭記』を書し、この内容に即して心力をつくし、石碑を祠堂のかたわらに建てた。書の手本を頼りにすることなく、高く優れたいにしえの道、このあらわれを教えた。むかしの人を奉じこれに従うということは、先ず、孝の志また最高のまことに従うということなのだろう。見る人が見れば私のことばがおごりあげつらったものでないことは自然とわかる。


天保卯秋九月二十八日
東都 綾瀬漁人亀田長梓撰
大寿時岡公光書』

 天保卯秋とは、西暦1831年で、思亭記碑建立四年後の事です。この文を完結にまとめるならば、次のようになります。
「昔の人を奉じ、これに従うことの大切さを述べています。その例として、志し高く、積極的に仏の教えを説いて、日本における有数のお寺となった選択寺(住職)をあげ、さらに、古典を学び、学問への努力の積み重ねがやがて無限の広がりをみせ、独自の流派を生み出すこととなった砕墨をあげ、そして思亭記碑建立に繋がります。」
次に、碑陰二は、海若本人が切々と選擇寺・祖先・父母の事等を記し、五智堂再建を果たし、戒めとして思亭記碑を謹書並建立した事が、見事な書風にて、記されています。正に達筆です。是非書体をご覧下さい。

現代語訳は次のようになります。

『この鶏頭山選択寺は私のご先祖さまの墓所であり、延宝戊午(一六七八)という年に鈴木兵衛門という人が将来葬られる墓所の近くにお堂を建てて五智の如来を安置なされました。また、自分の田畑を選択寺に寄進し、堂守りをする僧侶をお置きになられたのがこのお堂です。これは仏教に帰依し先祖を敬う心持ちであるに違いありません。
そうして代々このお堂も残ってきたのですが、時代が変わり、私の父の代になって家が貧しくなったため維持することができなくなってしまいました。
寛政九年(一七九七)にここから江戸にでて本船町に住むことになりましたが、父という人は雨が降り風が吹く度にこのお堂が荒れていることを言募り、どうにか立て直したいと思っていたようですが、それを果たせぬまま文化十一年(一八一四)三月にここに戻って亡くなられました。享年は七十二歳でありました。
母はその思いを継いで、日々の生活を切りつめ、お堂の再建費にと心づもりしていらしたのですが、文政の春、神田からおこった火事が本船町にもひろがり、年々貯めておりました再建費もあっという間に灰になり、母はお堂の再建ができなくなったことを悔やんで、
「私は八十歳近くになったので生きている間に再建はならないだろう」
と嘆いておられるのを、母の甥である鶴岡要輔が、
「おばさんのこども達が力をあわせれば再建できないことはないでしょう。もし再建できないままおばさんが亡くなっても、私がかわって再建の話しをこども達と協議しますよ」
といって、母の心を慰めることがありました。
このようななか、文政十一年(一八二八)に私の弟というのがお堂を再建しました。母はいうまでもなく親族中が集まってお祀りしたのですが、甥の要輔は去年の冬に病床について亡くなってしまっていたのでした。
秋の草花が台風によって萎んでしまうようにもの悲しく、正月の門松がすぐ雪に埋もれてしまうように痛ましい。朝、雨を降らした雲が夕方にはないように、病気になったと涙を流していたら私より先に亡くなってしまった、という母の嘆きの深さをそのまま石碑に刻んで、亡くなった人の徳に報いようとしているのです。
さて、鈴木の家に生まれた者が、後にこのお堂に登って納められたものを売ろうとし、この地に茂る木草を薪にしようと思う気持ちがあった場合、この碑の表に刻んだ陳之道の「思亭記」一篇によって、その戒めとするのです。
選択寺の鐘が遠くに聞こえ、読経の声がながく絶えないかぎり、我が父母がご先祖さまを思うように、将来の子や孫も先祖の記憶を忘れないで、今だけ(自分のことだけ)を思わないようにしなさい。

海若永識並書』

 この碑陰をあえて要約するならば、次の様になるでしょう。

「いつの時代であっても、自分ことだけを考えるのではなく、他人を思いやり、ご先祖様のことを思い敬う気持ちを持っていることが大切であることを述べ、それを理解しない者にはこの碑の表に刻された、思亭記、一篇を戒めとするものです。」
碑陰一・二については、現代語訳にて充分ご理解頂けると存じます。この寺本海若が謹書並建立した石碑には、誠に尊い言葉が刻まれています。更に、当時の選擇寺についても、山門・鐘楼堂・五智堂等の堂塔伽藍があり、更に当寺の事を、読み下しで記載するならば、「上総ノ望陀郡、木更津ノ鶏頭山選擇寺ハ歴世祖々高ナリ。宗風大イニ法輪ヲ転スル。誠ニ海東ニオケル念仏不退転ノ道場ナリ。」と、あります。
最後に碑陰の文末を大変綺麗な文章にて結んでいます。原文にて掲載し、今回の当山歴史五を終わります。 「此碑の表にしるす陳子道之思亭之記一篇をもてそのいましめにせんとなりいてや大寺の鐘遠くきこえ讀經の聲なかく絶さらむには我父母の遠津親を於もふかことくのちの子もうまこもいにしへをしたひて今をおもはさらめや

海若永識并書」

 幻の書家、寺本海若の思いを今に伝える「思亭記」碑、今から180年前の文化文政時代の当山の事跡の一つです。


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   嘉永2年8月「於竹大日供養」 選擇寺にて出開帳


まず初めに、「お竹大日」について、ご存じない方もあると存じますので、羽黒山正善院に伝わる、「お竹大日堂」の由来を説いた「於竹大日如来縁起絵巻」より、その縁起の概略についてご紹介致します。
『「お竹大日堂は、寺伝によれば、寛文6年(1666)に、佐久間勘解由家が施主となって、羽黒山麓の手向という宿坊集落の正善院黄金堂境内に建立された。縁起の概略は、次の通りである。

元和寛永のころ、江戸の佐久間某の家に、竹という下女がいた。竹は信心深く、従順で、五穀を大切に扱い、自分の食事を減らして飢えに苦しむ者に与えた。そのころ、武蔵国比企郡に乗蓮という聖(行者)がおり、生身の大日如来を拝みたいと思って出羽山に何年も通った。そして、登山の折りには、いつも玄良坊に宿をとった。ある年、例のごとくこの坊に止宿したとき、不思議な夢を見た。「お前が私の姿を見たいならば、これより江戸に上って、佐久間某家の竹という者を拝せ。」乗蓮は、これこそ大日如来の託宣、と歓喜し、宿の主人の玄良坊宣安とともに江戸に上り、佐久間家を探し出して、竹を礼拝した。すると、竹の全身から光明が発せられた。二人は竹を何度も礼拝し、感激して帰っていった。翌日から、竹は部屋に籠もって念仏に専心し、寛永十五年三月二十一日、亡くなった。竹の死後、家の主は等身の像を彫刻し持仏堂に納めて、毎日供養したが、その後、羽黒山黄金堂境内に、仏殿を建立してその像を安置し、その世話を玄良坊に任せた。
このような縁起を用意した羽黒修験の山伏は、お竹大日堂を宣伝するため、江戸の出開帳をおこなった。元文5年(1740)を皮切りに、安永6年(1777)には芝愛宕の円福寺で、文化12年(1815)には浅草寺境内の念仏堂で、嘉永2年(1849)には回向院と、都合四回の出開帳がおこなわれ、その際に略縁起やお札が頒布された。とくに嘉永二年の出開帳には、お竹大日如来像ともに、竹の「遺品」である、流しに結びつけてご飯や野菜の屑を集めたという麻袋や、竹が着用したという前垂れなども展示されたという。この絵巻も、絵解きをするために出開帳に合わせて製作されたものであった。賢女の不思議な物語をともなったこの出開帳は、江戸の人びとの心を掴んで大当たりとなり、この縁起を素材とした芝居や講釈、錦絵、小説などがたくさん生み出された。明治になっても、たとえば坪内逍遙の「お竹大日如来一代記」が上演されるなど、お竹ブームの残映が認められるが、時の流れとともにその記憶も薄れ、今日では、お竹の物語を知る人は少ない。』  国際日本文化研究センターHPより

以上でありますが、簡単に「お竹」についてに記しますと、
「山形庄内生まれのお竹さんは、江戸大伝馬町の佐久間という旅籠で女中をしていました。物乞いに台所の余り物を与え、自分は流し元に袋やざるをつけて一粒のお米も捨てないようにして、それを食べていました。やがてお竹は成仏し、人々から大日如来の化身と崇拝されるようになりました。」お竹とは、この様な女中でした。そして時の五代将軍綱吉の母桂昌院は、

「ありがたや 光とともに 行く先は  花のうてなに 於竹大日」

又、お竹自身も、

「手と足は いそがしけれど 南無阿弥陀仏  口と心の ひまいまかせて」

と、詠んでいます。共にご信仰からの、句であります。

 お竹大日供養塔の石碑文字

上段正面の石には、

梵字の大日如来
月山・湯殿山・羽黒山

中段の石、正面には、

供養塔

中段の石、左側には、

容譽代
寺世話人中

中段の石、右側には、

世話人
乙部孫四郎
飴屋長治郎
石井弥三郎

中段の石、裏側には、

於竹大日如来
開帳
嘉永二己酉 
八月日
先達長傳坊
當邑行人

 先ず、正面上段は、出羽三山の神仏の象徴、大日如来を供養讃嘆しています。
次に、中段の石からは、於竹大日如来の出開帳が嘉永2年(1849)8月に、木更津村出身で羽黒山で修行した長傳坊を先達とし、世話人、乙部孫四郎・飴屋長治郎・石井弥三郎の肝煎りで行った事が記されている。
当寺三十二世蓉譽円信上人と当寺の世話人の方々が、お竹供養の為と、この出開帳を奉修した事を、後世に伝える為、この石碑を建立した事が、読み取れます。
当寺での出開帳は、前頁にあります、嘉永2年に回向院で行われた時、更に出張し、選擇寺で行われた事になります。これは、「中央区郷土史同好会 講演会 101号」資料により、「出開帳は、嘉永2年7月20日より60日間、回向院で行われた。」と、記載されています。(4月5日か ら90日間又、30日間と諸説有り)
選擇寺の石碑に出開帳は嘉永2年8月日と有り、この事から、選擇寺と回向院とは同宗派で、しかも法縁があり、海路を使えば半日で移動も出来、簡単に荷物も運べ、又、羽黒山正善院の当時の先達長傳坊は、木更津出身者であり、不可思議なるご縁のむすびつきで、「出開帳」になったと考えられますが、歴史上に「選擇寺出開帳」の名が出てこないのは誠に残念です。
かくして、回向院出開帳の最中に、更に木更津選擇寺にて、言ってみれば、「出開帳の出開帳」という事になるのでしょうか。
嘉永二年の出開帳は、大々的なものであったと、前頁にあるように、於竹大日如来像を拝み、その遺品を見に、上総安房一体から多くの善男善女のご参詣があった事でしょう。
木更津の選擇寺で「「於竹大日如来」の「出開帳」を記す供養石碑一基、当寺境内に、何も無かったように鎮座しています。
今から、約160年前の出来事です。


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 憲法の番人 伯爵 伊東巳代治公と当寺36世山本禅應上人並内室キク


 ご本堂の下陣正面左右の壁面に、横2メートル縦90センチの、大きな額表装された書が、掲げられています。これを揮毫した人物が、標記の、伊東巳代治公で、大正12年に、36世住職の妻キクとのご縁により拝領したものです。
昨年11月、巳代治公、子孫の伊東治次氏(孫・大田区住)、伊東憲治氏(曾孫・目黒区住・5代目本家)のお2人が選擇寺に来寺されました。仲立ちを頂いたのは、総代鈴木義久氏であります。伊東本家の憲治氏と鈴木氏は、慶応義塾の学友であり、私(住職)が、以前この書について、説明致した時、この巳代治の子孫である、憲治氏の事を思い起こし、且つ連絡頂き、訪問という事になったのであります。
 今回は、官僚・政治家である、伊東巳代治公が、大きな影響を与えた、当寺36世禅應住職の妻、女傑山本キクの波乱万丈の人生を、更に夫の禅應上人の業績を共々ご紹介を致し、「当山歴史」と致します。
  先ず、伊東巳代治公について、その経歴等ご紹介致します。
  巳代治は、安政4年(1857)長崎に生まれます。早くから語学を修得し、伊藤博文にその才能を認められ、明治新政府に出仕します。明治15年、欧州憲法調査に随行、帰国後、伊藤の秘書官として、井上毅、金子堅太郎と共に、大日本帝国憲法の起草者の1人となります。更に明治政府の役職を務め、第3次伊藤内閣時には、農商務大臣に抜擢され、その要職に就任致します。その後、枢密顧問官等を歴任。枢密院の重鎮として、昭和初期まで政界に影響力を行使、自らを「憲法の番人」と称しました。
  又、伊藤と共に中国天津にも渡り、その風情に接し、拓本にての書法修学により、当代政治家中屈指の名筆と謳われ、「晨亭」(しんてい)と、号しました。
本堂に掲げられた、その書は、正に大作であり、達筆名筆でありましょう。
  その巳代治の書が、当寺に奉納されたのは、36世内室山本キクのご縁によるものです。
  キクは、明治20年、神奈川県二宮町の旧家、米穀肥料商を営む、豪商田中松太郎・チカの3女として生を受け、大きな商家の娘として、何不自由なく学業を修め、成長します。田中家と浅からぬご縁のある、伊藤博文公の所望により、伊藤博文の縁者宅(別邸)に、キクは身の回りの、お世話役として、ご奉公にあがります。
キクは、明朗快活にして、何でも興味を持つ聡明な、しかも、行動的な女性でした。そして、伊藤博文の別邸で、その働き振りを認められ、今度は、伊藤博文の秘書官の伊東巳代治の邸宅に、ご奉公にあがりました。巳代治の邸宅は、東京永田町です。家族・書生・女中・雑用係り・行儀見習い等、大勢の方がいたと思います。
キクはこの伊東邸で、巳代治本人より、世界情勢や政治の話等、沢山聞いたに違いありません。米国や欧州や中国等。キクはこの時点で、「外国を見聞したい」という、大望を抱き、そして、それを現実のものと致しました。
 子孫の治次氏・憲治氏がこの書を見ての感想が、「この様な大作は、見た事が無い。巳代治の書中、最も大きな作品で、傑作であろう。更に、選擇寺の為に書した事が記されている。ここまでして、奉納するとは、誠に深い深い繋がり、ご親交があったに違いない。又、80余年の長きに亘り、ここに掲げて頂き、巳代治もきっと、喜んでいるに違いないし、私達子孫も、感激を致しました。」と、のお言葉でした。巳代治公と、選擇寺とは、大変親しい間柄であったに違いありません。
さてキクは、巳代治邸で行儀見習後、縁あり、選擇寺へ嫁してきます。キク生家の菩提寺は、二宮の曹洞宗竜沢寺で、檀家総代を務めており、当時、選擇寺と親交があったと考えられます。その縁により、選擇寺山本禅應住職の内室(妻)となり、先程の通り、伊東巳代治の進言も有り、住職禅應共々、米国のサンフランシスコへ渡り、その夢を叶えるのであります。巳代治とのご親交は、巳代治が昭和8年に没するまで、続いたと思われますが、書簡等が残っていないのが誠に残念です。
 ここで、キクの夫で、当寺36世を継承した山本禅應上人の経歴について少々記しておきます。(先々代禄瑞上人の著した、「選擇寺歴代上人の事跡」を参照します。)
禅應は、明治11年に木更津五平町、紀伊国屋に生を受け、名を清三と言い、父親を早くなくされたので、菩提寺である選擇寺へ、幼少の頃入寺され、当時隠居されていた、33世大禅上人(安政4年より明治7年まで住職)の弟子となり、大禅上人門下生で、当寺で仏道精進していた、山本恵雲氏の養子となり、山本禅應と改名をします。
しかし乍、養父の山本恵雲、突然の病にて正念往生、以後、祖父とも言うべき年齢差のある、隠居大禅上人と、現住職35世寂禅上人(明治20年より30年まで住職)のご教導を受け、当寺にて研鑽に励み、明治28年春、浄土宗学東京支校(現在の芝学園)で修学する為に上京し、3年間の厳しい修行と、浄土宗学・仏教学を習得、大本山増上寺に於いて、宗戒両脈を伝授され、明治31年6月、浄土宗僧侶資格を有し、東京支校を、はれて卒業したのであります。
   一方、選擇寺では、祖父のような師である、大禅上人が明治27年に、又、現住職の寂禅上人が明治30年に遷化していた為、直ちに、禅應は、帰郷し、若干20歳で名刹選擇寺の36世住職を拝命するに至ったのであります。
そして、その数年後(明治35年頃)、佐貫の安国寺住職古川霊関上人を寺務代務者たる院代とし、ついに、当寺檀家役員のご理解を頂き、米国サンフランシスコへ遊学を果します。妻キクの進言と、更には巳代治公の助言もあってのことでしょう。何れにしても、現住職夫妻が、明治時代に渡米するとは、当時全く考えられない事です。
サンフランシスコで、どのような生活をしていたかは、分からなかったのですが、今回この「当山歴史」を掲載するにあたり、その足跡の一端を発見する事が出来ました。
  キクの生家の二宮町に浄土宗の知足寺という御寺院がございます。その知足寺様より、発行されている「みどり」という冊子の中に、「山本禅應の名前があります。」と、ご連絡頂き、その冊子をご恵送賜りました。この冊子の中には、知足寺ご住職相馬宣正上人の祖父であります、相馬千里上人のご生涯等が、書されています。(初版は昭和16年)
その冊子「みどり」に、次のような事が掲載されています。
 『相馬千里上人と、山本禅應とは、浄土宗学東京支校の学友であり、米国で再会いたします。禅應は、正に、外国の事情を取入れて、新時代に対応する活動をせねばならぬと、見聞遊学を致します。千里上人は、浄土宗の教えを布教するために海外開教者として、明治37年にハワイへ渡り、明治40年に、サンフランシスコへと布教の場を米国本土へ移し、東京支校卒業以来、遠い遠い、異国の地で禅應と再会を果すのです。2人の驚きは、いかばかりか、想像すら出来ません。書中では、其の時の事を、「万里波とうを越えた異境の空での奇遇に、両人は驚くと共に、大いに喜んだ。」とあります。
禅應夫婦は、当時、邦人クリーニング商の塚本松之助氏のお世話になっていました。
  禅應は、千里上人の目的を知ったが、今はその時期ではない。昨年は、この地方に大震火災があり、町が焼野原となっていた。禅應は、千里上人に時節の到来を待つように説いたのであった。そして、充分な資金もなかった上に、定住地もなく、禅應の勧めもあって、禅應夫婦と共に、塚本松之助氏のお世話になり、千里上人はその後3年間、働きながら、サンフランシスコ美以教会英語学校で英会話や聖書の研究をし、後日の為に備えた。』と、あります。
  以上の事が、書中2頁にわたり、書されています。この事実は、選擇寺に取りましても新発見でありましたし、知足寺様に大変感謝申し上げる次第でございます。
  又、当時お世話になっていた、塚本松之助氏とは、福沢諭吉の門下で、慶応義塾を卒業、福沢諭吉の進言により、明治初年に、井上角五郎氏等数名でサンフランシスコに渡り、苦難を乗越え、移民者として大成功を収めた方です。禅應・キクの大恩人であります。
 更に、余談ですが、塚本氏は、慶応義塾の有名な校章「2ペン」を考案したという、説もございます。
禅應・キクは、その後数年、サンフランシスコに滞在し、大正元年頃、帰国の途に着きますが、その詳細は、ほとんど分かりません。1世紀100年という時代の流れの中に、米国へ遊学したという事だけが、当寺に伝わるのみです。
禅應は帰国後、当寺にて、檀信徒各位に大変尊敬され、寺門興隆に精進し、本堂・書院・庫裡の改築に着手し完成を致します。しかし、大正12年の関東大震災において、大被害を被むり、選擇寺伽藍は倒壊いたし、特に、本堂の被害は著しく、建て替えをせねばならぬ程でありました。禅應は、これからは、地震火災に強い、「耐震火災の鉄筋コンクリート建築である」との考えの下、現在の本堂を建築したのであります。
禅應の米国遊学なくしては、今の本堂は無かったでありましょう。その本堂は、平成12年に国登録有形文化財に指定されている。
又、禅應は、宗門の為にも尽力致し、浄土宗千葉教区教務所長の要職に選任され、県下本宗寺院の統率にあたりました。書、和歌、謡も嗜み、今春流の師範であり、「翠園」と号しました。
キクは、住職禅應を補佐し、寺庭婦人として、その本分を発揮し、内助の功に勤めるも、昭和3年に禅應上人52歳で遷化。実は禅應は、現在の本堂を見ていないのであります。誠に残念な事ですが、禅應遷化後に、本堂が完成を致すのです。
本堂建築は、跡を継いだ37世山本禄瑞上人が禅應上人の意思を継ぎ、檀信徒の絶大なるご協力を頂き、見事に落成させます。キクは、隠居致すのですが、数年後、生来の冒険好き、今度は、中国に渡ります。巳代治公の影響でしょうか。まさに波乱万丈の人生を明治・大正・昭和と、思う存分生き抜き、昭和34年、禅應の待つ、極楽浄土へと旅立ちました。
あの激動の時代、幼少の頃は、大店のお嬢様として、少女娘の頃は、伊藤博文・伊東巳代治の影響を受け、縁あり禅應の妻となり、禅應共々渡米。帰国以後は寺庭婦人として精進し、禅應往生後、更に単身中国と。キクの生涯は、正に求道一筋でありました。
今年が、その女傑、山本キクの50回忌に相当することも有り、仏天のご加護の中、不可思議なるご因縁に生かされた、キクについての「当山歴史」と致しました。
最期に、伊東巳代治公が、当寺へ奉納した「書」の内容を記し、結びと致します。

「樂天知命」   てん たの しみ めい

 中国の教えの中に、この言葉があるようです。
 人として、命を頂くとは、大変難しい事であります。数え切れないほどの「生命」がある中で、人間として生まれてくる確立は、1パーセントにも満たないでありましょう。「人身受難し」であります。その与えられた、人生を思う存分、その与えられた環境・境遇の中で、しかも楽しんで、しっかりと使命をさとり、生き抜いて行く。その様な生き方を、巳代治は、キクの人生の中に見たのではないでしょうか。
「楽」とは、単なる「楽しみ」ではなく、

私は 「法悦」 ほうえつ と、受け止めています。

 この言葉は、間違いなく、女傑山本キクに贈られたものと、確信をしおります。

 次に、

「攘雲尋道」   くも はら い道を たず ねる

 この四文字熟語は、住職山本禅應に贈られた言葉であろうと存じます。
 私達、僧籍に在る者の原点の言葉と、解釈致しております。我が身、我が心は、この娑婆世界に、うごめきながら、生かされている、罪悪生死の凡夫であります。しかし乍、悪をあらため、善行に勤めて行く。私達は、この世に於いて、お悟りの境地に達する事は、中々出来ないのでありますが、常に仏道精進する事こそが、住職たる責務であります。その上に、檀信徒教化、寺門興隆があるのでしょう。

「煩悩の雲を攘い悟りの道を尋ねて行く」

との、巳代治公の言葉でございましょう。
 この様に、2つの、尊い言葉を、拝領し、禅應・キクは大変喜んだに違いありません。
 選擇寺の近代史の1つをご紹介致しました。
 文末に、今回の「当山歴史」にあたり、ご協力頂きました、伊東治次氏、伊東憲治氏、鈴木義久氏、田中八重子氏、知足寺ご住職相馬宣正上人の皆様に厚く御礼を申し上げる次第です。


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 選擇寺本「釈迦涅槃図」天羽七衛門尉景安が奉納


 今回の当山歴史は、選擇寺に伝わる「釈迦涅槃図」についてご紹介させて頂きます。幾多の火災・震災を免れ、今に伝わる、一番大きな一幅です。毎年、お釈迦様の涅槃の月、即ち2月に本堂に御奉安致しております。

1.選擇寺本「涅槃図」の由来
この涅槃図は寛文7年(1667)に、天羽七右衛門尉景安(あまは しちうえもんのじょう かげやす)という人物が、成覚院殿(父)・悟真院殿(母)の33回忌追善供養として、選擇寺に寄進した事が、涅槃図の裏面に記されています。 これは画中右下に成覚院殿、左下に悟真院殿が描かれていることからも窺えます。画中に追善供養の対象や施主を描き込むことは、他の涅槃図にもあるようです。 そして、当時の住職は21世願譽玄利上人で、この上人の名前も裏面に記されています。即ち、この涅槃図が制作奉納されてから、約340年が経過致し、現在に伝わっております。

2.天羽七右衛門尉景安
 奉納施主、天羽七右衛門尉景安とは、どの様な人物なのでしょうか。実は、涅槃図裏面に記してあります施主の名前が、一字誤字である事が、住職の調査で分かりました。裏面には「天羽七左衛門尉景安」とあり、当時の住職が七右衛門と七左衛門を誤字した事が、最近判明致しました。「天羽七右衛門尉景安」が正しい名前です。 天羽七右衛門尉景安の名前は、千葉県君津郡々誌(下巻、1161頁)、木更津市史(214頁)に、「旧町村沿革」に、次の様に記載されています。 「金田村の瓜倉」の項(木更津市史より) (金田村の瓜倉とは現在、木更津市中島に所在しております。) 『瓜倉は元和8年徳川氏の大番組与力給地となり、寛文10年浅井氏等の知行となり、延宝二甲寅年新田開墾をなせしが、当時代官天羽七右衛門之を支配せり・・・』と、あります。又、「江戸幕府の代官」村上直著に、延宝元年の幕府代官と支配地・知行一覧があり、「信州代官 天羽七右衛門 二百石」とあり、更に、寛政重修諸家譜の天羽家の中より、天羽七右衛門尉景安の名前を発見する事が出来ました。

 天羽家系図は「景次→景慶→景安→七右衛門→某」とあり、この諸家譜にても、家禄ニ百石で代官を勤め、天和2年に亡くなった事が記されています。他にも幾つか資料があり、総合いたしますと、天羽家並びに景安とは、次のような家系・人物であることが分かります。
 初代景次は、内匠と号し、徳川家康に天正18年より仕え、二代景慶より七右衛門と号し、秀忠・家光に仕え、寛永3年より寛永14年まで信州代官(陣屋不明)を勤め、俸禄は不明です。景安は、この父と母の追善の為に、涅槃図を奉納致しました。諸家譜に景慶の戒名が記して有り、涅槃図に記して有るものと同じである事の確認が取れました。
 景安は、七右衛門と号し、家光に仕え、父の後を継ぎ、代官を勤め、二百石を賜い、金田村瓜倉の地を領地として支配し、寛永14年より慶安3年(陣屋不明)・慶安3年より天和2年(中野陣屋)まで信州代官を勤めていたようです。
 又、「天領」村上直著に、北信濃中野陣屋に寛永20年に赴任していた事、中野の他に、南信濃の伊奈・筑摩両群の天領も支配し、多いときには、六万石に及んでいた事、更に天和2年(1682)佐久郡の天領を平賀陣屋において支配していた事が記載されています。いづれにしても、金田村瓜倉を領地とし、代官として幕府に仕えていた事が分かりました。
 次に後を継いだ天羽四代七右衛門は、景安の養子にして、代官に就任するも、元禄2年に不祥事の為、免職、更に元禄10年遠流となり、その子(某)7歳も父の罪に座して追放なるも元禄13年に許されています。

 簡単ですが以上の事が種々資料より読み取る事が出来ました。 それでは、天羽七右衛門尉景安は何故、選擇寺に父母33回忌菩提の為に涅槃図を奉納したのでしょうか。 徳川家旗本の景安の居住する所は、江戸府内であり、支配する領地で、何か事が生じると、代官としてその地に赴き、勤めを果していました。平常は江戸に居たと考えられますし、菩提寺も江戸にあった事でしょう。
 又、天羽家所領の金田村瓜倉は、近い事もあり、時々見分に来ていたとも想像できます。資料に「本国上総・生国上総」ともあります。江戸から海路で木更津に渡り、領地の金田村瓜倉に出向いたのでしょう。当時木更津は房総半島一の大きな町であります。木更津の事はよくよく承知していたはずでありますし、又行き帰りには必ず立寄り、寄宿などもしていたはずであります。その時、天羽家菩提寺と同宗派であり、西上総を代表(幕府より触頭・納経拝礼を委嘱)する寺院の選擇寺にお参りされ、更に、当時選擇寺住職玄利上人に深く帰依し、大々的に選擇寺において父母33回忌をお勤めし、涅槃図を菩提の為、奉納したと考えられます。
 以上の様な見解になりました。天羽家が現代まで継承されている事を願うものであります。

3.涅槃図の形式
  美学において日本の涅槃図はふたつの形式に分類されています。 第一は平安時代から鎌倉時代前期まで、第二は鎌倉時代以降です。 これらは画中に描き込まれた人物の多寡によって判別することができます。 登場人物が少ないのが第一形式、多いのが第二形式であります。 選擇寺本は典型的な第二形式であります。

4.他本(他の涅槃図)との類似
  涅槃図の描き方には、いくつかの流れがあるようです。選擇寺本は画中人物の描き方などに興聖寺本の涅槃図の影響を受けているとの事です。 そうであれば選擇寺本を描いた絵師は土佐派ということになりますが、断定することはできないそうであります。詳細は専門家の鑑定を待たねばなりません。

5.絵図の紹介
 お釈迦様は、クシナガラの近郊、跋提河(バツダイガワ)のほとりの沙羅の林の中で、御身を横たえ、菩薩や弟子たち、また信者が周辺に集って見まもるなか、涅槃の境地に入られました。
お釈迦様の、80年のご一生を終えてようとした時の様子を、図絵したものが釈迦涅槃図であります。  
涅槃図全体を紹介するには、膨大な紙面を要しますので、一部のみ、ご紹介申し上げます。 沙羅の木は、悲しみのあまり4本が枯れ、残り4本は青々と茂っています。これは、大変な事が起きた事を表しています。 また、お釈迦様の入涅槃を聞きつけ、お釈迦様の母、摩耶夫人が次女を従え、お釈迦様の十大弟子の一人であります、阿那律の先導で、よりかけつけた様子が描かれています。

 左端の沙羅の木に、薬袋が掛かっていますが、この中に、お釈迦様が飲まれる薬が、入っています。ねずみが取りに行こうとしたところ、猫が邪魔をしたため、お釈迦様は薬を飲むことができませんでした。そうした理由で、画中に猫は描かないのですが、選擇寺本は、猫が描かれています。

横たわる、お釈迦様の周りを、生有る全てのものが、嘆き悲しんでいる様子です。
弟子たちは勿論、草木虫魚動物に至るまで、偉大な宗教者「お釈迦様」の、この世の最期の瞬間を描いた選擇寺本涅槃図。

絵図そのものの、解説が出来ませんでしたが、又、別の折に、詳細にご説明申し上げたいと存じます


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 江戸時代に於ける選擇寺職務 触頭と納経拝礼


 選擇寺には、江戸時代に書された、十数通の古文書が残されておりますが、その文中に、当寺の職務についての記載があります。今回の当山歴史は、古文書より発見した、当寺の役職についてご紹介致します。
 当寺は、江戸時代に「触頭」(ふれがしら)という役職を拝命しておりました。古文書に次のようにあります。
 「西上総の触頭の件について、お尋ねがありましたが、選擇寺は御役所へ報告書に書きましたように、代々触頭であるため、回文が来た時には、順次回覧して配下の寺院はその内容を理解し、最後は大乗寺からその手紙を当寺に返却するように。また大事な内容の場合には、選擇寺へ配下の寺院が集まって会合することになっています。」
と、あります。(分かりやすい様に、現代語訳にしました。)
  「触頭」とは、寛永十二年の寺社奉行の設置とほぼ同時に、幕府は各宗派ごとに、有力寺院に触頭を定めました。浄土宗では、芝増上寺を総録所(総触頭・大檀林)に定め、全国の浄土宗寺院を統括させました。即ち、各地方の触頭は、幕府からの御触(又は、総触頭の芝増上寺からの御触)を廻達し、幕府や浄土宗を統括する増上寺との取次役としての役務などを担う職務であります。
 浄土宗の場合は「幕府→増上寺(総触頭)→各地の触頭寺院→近隣の触下寺院」という様な順にて、文書通達がなされていました。
古文書中より、選擇寺は代々触頭の職を務めていた事が、記されています。西上総では、富津の大乗寺もその職にありました。
 触頭に就任した理由についての詳細は分かりませんが、江戸時代当時の上総国に於ける、選擇寺の由緒や寺格の高さを示すものと言えましょう。現在は勿論ですが、情報を早く知る事は当時としても大変重要な事です。  又、「大事な内容の場合には、選擇寺へ配下の寺院が集まって会合することになっています。」という文言があります。重要問題の時、配下寺院は選擇寺に集合したとありますが、それに関する、古文書に次の様な一文があります。
 「元禄三年の鉄砲所持に関する調査のための回状が来た時には、九か寺に触れ下し、 選擇寺珂春の代には当方に寄合い証文を取り置いて、御当山(増上寺)へは、選擇寺だけが署名して報告しました。もっとも当寺もやはり先例のように報告してきました。」と、あります。
 総触頭であり、浄土宗を総括する芝増上寺への回答の様であります。この文は、当寺二十三代珂春上人の時代に、鉄砲所持の件につき調査の為、集合相談し、選擇寺の署名のみにて返答した事が読み取れます。
 触頭は、近隣寺院のまとめ役的寺院であり、その職責は大変重く、地域を代表する別格寺院的なものと考えられます。
 次に、選擇寺は「納経拝礼」(のうきょうはいれい)も務めておりました。
 納経拝礼とは、将軍家の葬儀(又は法事)等に、列席を許され、出仕する寺院(又は僧侶)の職を言います。当寺の古文書に、次の様にあります。(現代語訳にしました)
 「選擇寺は、正式書面の朱印状はありませんが、歴代の住職は納経拝礼を命ぜられてきました。もっともその証拠については、七代前以前の火災により記録など焼失して しまってありません。」とあります。
 そして調査の結果、「増上寺史料集」第九巻『厳有院殿薨御記』並びに『厳有院殿記録』に選擇寺の名前を発見しました。(「厳有院殿」とは、徳川家綱の戒名です。)
延宝八年(一六八〇)五月八日、江戸幕府四代将軍徳川家綱の死去にともない、幕府は、葬儀を上野寛永寺で執り行いました。
 そして、菩提所の芝増上寺に対しては、徳川家綱の位牌を安置し、六月二十四日から二十七日まで、中陰の法要を行うように指示され、選擇寺はこの増上寺での法要に出仕していた事が、右記の増上寺資料集に記載されています。実に驚くべき事実であります。木更津の一地方寺院にあって、徳川将軍家の法要に列席を許されたという事です。
  この法要に出仕したのは、当寺第二十一世願譽玄利上人と思われます。(正確な歴代住職の在位期間が不明の為)
 それでは、どの様な寺院が出仕したのか、史料の内容をみてみましょう。
延宝八年六月二十六日に、家綱の満中陰の結願法要に際して、お勤めした寺院が列記されています。本山知恩院(当時は本山でした)をはじめ関東十八檀林(檀林とは、大寺院にして学問道場の寺院の事)あるいは三河の松平氏の関係寺院など一一四力寺の中に上総選擇寺の名前があります。
 幕府の寺院区別(序列)として、先ず、徳川家菩提所を挙げ、次に「檀林方」と称し、関東十八檀林、次に「本寺方」と称し、筆頭に現在の総本山知恩院の名前が書されています。選擇寺は、この本寺方の中で、納経拝礼していたわけです。幕府の見識は、知恩院も選擇寺も、「本寺方」という、枠の中で同一にみていた事がわかります。次に「内礼・独礼」(将軍に謁見できる寺院・登城を許された寺院)最後に、「五十石以上之朱印地」朱印地を五十石以上拝領している寺院、と続きます。
即ち、序列順位は次の様になります。
1、 徳川家菩提寺の寺院
2、 檀林方寺院
3、 本寺方寺院(選擇寺はここです)
4、 内礼独礼寺院
5、 朱印地五十石以上所領の寺院
  次に、納経拝礼寺院の選出について、幕府(寺社奉行)は、明確に基準を設け、総触頭の増上寺に対し、廻状を諸寺院へ回しています。廻状は、次の様なものです。
一、御当地・遠国共二独礼相勤め候寺院諷経致すべきの事。
一、関八州にては、高五十石以上の御朱印地の寺院納経致すべきの事。
一、遠国は一宗の大本寺迄納経致すべきの事。
一、諸宗は東叡山(寛永寺)へ納経致すべきの事。
一、浄土宗は増上寺へ納経致すべきの事。
  右の外、古跡各別の由緒これ有る寺院吟味の上に指し加うべく候、無断に罷り出ずまじきの事。
以上の様になります。

 特に最後の文言は、「むやみに出仕してはならぬ」と、固く戒めています。
総合的に判断いたしますと、選擇寺は、最後の「右の外、古跡各別の由緒これ有る寺院吟味の上に指し加う」とあり、上総国を代表する古跡由緒寺院との判断で、檀林方に次ぐ「本寺方」に選ばれたと考えられます。勿論、「触頭」を務めていたという事も加味された事でしょう。
 幕藩体制下において将軍権力をあらゆる形で取組む事は、寺院の存続などに大きく影響を及ぼすべき事象であったと思います。限られた寺院のみが参加許可を得られていた事を考えると、納経拝礼に出仕する事自体、内外的に栄誉名誉を伴い、選擇寺の寺格由緒に多大な付加価値がついたと考えられます。


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 木更津市近代幼児・児童教育発祥之地


 選擇寺後方に、木更津第一小学校がありますが、明治十一年までは、選擇寺の境内地でありました。(約千坪)
 時の住職は、三十四代定然上人ですが、小学校用地として境内地使用に内諾したのは、三十三代大禅上人の時であります。
 ご承知の通り、木更津県時代、県令柴原和は、選擇寺を宿舎としていました。柴原和については、浄心二六五号に記しましたので省略致しますが、育児政策・学校教育に大変力を注いだ方であります。
柴原和が選擇寺に居住していた、明治五年八月に学制が公布されました。翌年、木更津では、証誠寺に南校、光明寺に北校、そして吾妻に吾妻校の小学校が設置されましたが、当時はまだ、既存の建物を使用、更に教員の教育制度もなく、寺の住職や、読み書きができる、知識者等が指導するという、江戸時代の寺子屋の様相でありました。
 政府よりの公布を受け、日本全国とりあえず小学校を設置したという事でありましょう。
 この様な時、将来的に選擇寺北境内地を学校用地にしたいという、柴原和の懇願を受け、三十三代大禅上人が境内地使用の内諾を致し、後継住職の定然上人が使用を許可致しました。
 ついに五年の歳月をかけ、明治十一年十一月に、新校舎が完成、沿革史には「其ノ構造宏大荘厳ナルコト当時千葉県内小学校ノ第一ト称セラレタリ云々」とあります。
 ここに、木更津市で初めて、設備の整った、近代建築校舎による、本格的な近代児童教育が選擇寺の境内地より始まったのであります。
又、明治二十六年に、佐々木かね園主により、私立「木更津幼稚園」が、選擇寺内に開園されました。
 木更津市では初めての幼稚園設立です。千葉県下では、千葉・佐原・佐倉に次ぎ四番目の幼稚園となります。
 佐々木かねは、選擇寺三十五代禅應上人の母「フデ」と、縁故があり、フデのすすめで、幼稚園を開園したと伝わっています。
 佐々木かね園主により設立された、木更津幼稚園は、何度か移転し、昭和初年に中片町に園舎を新築、昭和十七年に閉園するまで約五十年に亘り、木更津の幼児教育に尽力いたし、多大な功績を残しました。
 即ち、選擇寺は木更津市に於ける、幼児・児童教育の発祥の聖地であります。
 そして、今般小学校新校舎建築にあたり、記念として石碑を建立致しました。本堂西側奥に石碑が建立されています。隣接し、説明の案内板を設置致しましたのでご覧頂ければ幸いです。


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 木更津警察署発祥之地


 「明治六年六月木更津村に設置せらるる当時は仲町選擇寺の一室を借りて仮庁舎に充てたりしが後南町第四大区扱所に遷り後八幡町に改築移転し更に明治三十六年五月廿二日木更津町木更津字仲町千参百七十七番地の一に新築移転せり現今の庁舎之なり云々」と、千葉県君津郡誌下巻八二七頁の第二節「木更津警察署」欄にあります。この文は、現在木更津警察署で保持するところの「警察沿革史」とほぼ同文であります。この文章を持って、木更津警察署が選擇寺の一室より始まった事がお分り頂けることでしょう。
 仮庁舎が設置されたのは、明治四年木更津県時代、県令柴原和は選擇寺を宿舎としていました。二年後の明治六年六月木更津県が廃され印旛県と合併し、現在の千葉県となり、柴原和は千葉市へ転居、宿舎としての選擇寺の役目は終わりましたが、今度は、木更津警察署の仮庁舎に当てられ、暫くの間、この地域の安全を護る拠点となりました。
 柴原和は、治安政策にも大変力を注いだ名県令の一人であります。
 次に開署日について調べますと、明治初期に設立された、千葉県下三十一の警察署の開署日が全て、明治六年六月十五日なっています。これは明治後期、行政組織より各警察署に「沿革史」を提出するよう命令が下り、その際、千葉県発足の日を以って、開署日にするよう、指示があったのではないかと思われます。
 千葉県史料近代篇に「明治七年一月十七日下総国葛飾郡本行徳駅松戸駅上総国望陀郡木更津村へ取締所ヲ置キ警保視察ノ事ヲ分掌セシム」とあり、ここにはじめて、警察署の前身である、「取締所」の名前が出てきます。そして、千葉県下の「本行徳・松戸・木更津」の三地域に警察署の前身たる「取締所」が設置された事が明記されています。この日以前に「取締所」に関する記載はありません。即ち、千葉県下で最も早く、警察署の前身たる取締所が置かれたのは、「選擇寺の一室」を含む三ヶ所という事になります。
 更に、名称の変遷について記します。
  明治七年一月十七日「取締所」
  明治七年七月廿日「第四大区取締所」
  明治八年十一月十四日「出張所」
  明治九年九月十五日「警察出張所」
  明治十年二月八日「警察署」
 この様にして、約三年の間に、名称の変更を致し、以後「木更津警察署」として現在に至っております。
住職の私見としては、前記の「小学校」設置同様、警察署の前身の「取締所」設置についても、県令柴原和の指示によるものと考えています。千葉県設立後、柴原和は千葉市へ転居し、官舎として使用していた選擇寺の「居間・客殿」等、そのまま「取締所」として使用するよう命令を下したのでありましょう。
 いづれにしても、明治維新まもない時期に、選擇寺では「取締所」並びに「小学校」の設置という、歴史的に重要な事柄が生じたわけです。この様な事跡についての記録が、選擇寺に存在しないのが誠に残念な事です。
 今から、約百四十年前の出来事です。
 尚、この項の説明文等は、千葉県警本部巡査部長露﨑栄一様・木更津警察署警部補内尾彰宏様の調査・ご指導によるものです。誠に有難うございました。
 又、後世に「木更津警察署」の発祥之地が選擇寺ある事を伝える為、境内に石碑を建立いたしました。檀家総代・木更津警察署友の会会長でもある、星野良一様の寄進によるものです。
 先日、木更津警察署署長深木賢二様はじめ、警察署員同席にて、除幕式を執り行いました。



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 小林一茶と選擇寺


 小林一茶の経歴等は、皆様もよくご承知の事と存じますので詳細は略しますが、宝暦十三年(一七六三)現在の長野県信濃町に農家の長男として生を受け、十五歳で江戸へ出ます。そして、二十五歳の時、二六庵小林竹阿に師事して俳諧を学び、その後は、俳諧道を究めてゆきます。
 さて一茶は、房総地方にも度々訪れています。木更津来訪の時は、選擇寺を常宿にしていたと、当寺では伝えられています。当時、一茶と大変親しかった、「雲哉」という俳僧が選擇寺におりました。選擇寺には、当時十数名の僧侶(含修行僧)がいたと考えられます。雲哉は、其の内の一人であり、俳句を通して、一茶と交流を深めていました。又、この雲哉・一茶の縁により、選擇寺二十八世秀海上人とのご縁も始まったようで、俳号大椿と称し、当寺の末寺であります東岸寺住職を経て選擇寺へ入山されたた方です。
 「急逓記」に享和四年一月、雲哉が、木更津出身の祇兵に、金四百文を添えて、一茶に手紙を届け、翌文化元年二月には、今度は一茶が、祇兵に手紙を託して雲哉へ届けている事が記載されています。
 さてそこで、仲立ちをしている「祇兵」とは、いったい誰でしょうか。
 一茶に関する資料では、「江戸本船町の人。上総木更津の出身か。」とあり、その出生所在についての詳細は、分からない様でありますが、一茶の支援者であり「一茶園月並」を主催、江戸から房総にかけ俳人に出句を呼びかけていると、説明がありますが、実はこの「祇兵」は、選擇寺の檀家鈴木儀兵衛であり、先祖は、延宝六年(一六七八)より選擇寺の檀越で、鈴木家の七代目であります。祇兵は、事情により、寛政九年(一七九七・五十五歳)に、江戸本船町に移り住むようになりました。このことは、祇兵の長男「寺本海若」(亀田鵬斎門人で書家)が境内に建立した「思亭記碑」の碑陰に詳しく刻まれています。
 木更津生まれ木更津育ちであり、先祖累代のお墓も選擇寺境内にあり、当時屋号を「祇園屋」と称しました。「祇兵」を名乗ったのは、屋号「祇園屋」の「祇」と、名前の「儀兵衛」の「兵」で、俳号「祇兵」としたのでしょう。当然、選擇寺の役僧雲哉とも親しく、江戸と木更津を頻繁に行き来し、房総地方における、一茶の最も信頼のおける俳友であったに違いありません。「急逓記・文化句帖」等に、「祇兵」の句・名前を見ることができます。祇兵は文化十一年(一八一四)三月三十日七十二歳にて没しています。御戒名「寂譽満功靜圓信士・寺町祇園屋儀平」と、当寺の過去帳にあります。(過去帳には、儀平の字、石碑には儀兵衛の字なっていますが、時折この様な事もあります。)
 「三韓人」に、祇兵の句があります。

   「初雪や梅に筋かふ釣瓶竿(つるべざお)」     文化十一年三月卅日没

 又、雲哉はその後、文化二年には、選擇寺を離れ、江戸千住の誓願寺住職に就任しています。その経緯については、不明です。
 「急逓記に、春の雨始めて足を伸ばしけり」と、雲哉の句があります。
 祇兵・雲哉共に、一茶を支えた人です。

 さて次に、選擇寺の名が「享和句帖」に出ています。享和三年(一八〇三)十一月
 「十五日雨扱選擇寺所化荷○円閲」とあり、「所化」とは、修行僧のことです。脱字誤字があり、内容がよく分かりませんが、選擇寺随身の学僧との交流の文言のようです。
 又、「文化句帖」には、翌年の文化元年六月廿八日に「選擇寺日中終念仏踊アリ」と、記載があり、この日に選擇寺では、一日中「念仏踊り」があった事を記しています。一茶もその様子を見て、楽しんだ事でしょう。現在選擇寺では、「念仏踊り」は絶えてしまいました。法楽(娯楽)として、この地域の伝統であり、文化になっていたものと思われます。

 次に一茶の「句日記写」中 文化六年三月六日に、選擇寺北どなりあります、東岸寺において藤見の句会が開かれた事が記載されています。
 当時は、選擇寺と東岸寺は小路を挟んですぐ隣で、選擇寺北境内には、藤棚が幾つもありました。(現在、選擇寺北境内約千坪は、木更津第一小学校になっています。)通称「東岸寺藤勧進」といい、東岸寺境内に万霊塔建立の為に、一茶を招待しての勧進興行が行われました。東岸寺の、大藤の下での句会です。(現在大藤はありません)

 「東 岸 寺 藤 勧 進」 句
  藤棚や うしろ明りの 草の花    一茶
  石なごの 玉にもかゝれ ふぢの花 雨十
  必も 夕日さしけり 藤の花      魚沢
  藤さくや 里はすらりと 更衣     大椿
  あか桶も 皆ふぢ棚の 月よ哉   貞印

 「雨十」とは、名主石川八左衛門(明治年間に絶家)「魚沢」は、どの様な人物か不明であります。「大椿」は、選擇寺二十八世秀海上人。「貞印」は、尼僧で、富津大乗寺の随身僧ではなかったかと思われる。

 当時評判の、一茶を招いての「藤勧進」。興行収入もあり、東岸寺境内に立派な「万霊塔」が建立されました。この時に、前文で記しました「祇兵」の句や名前が見当たりませんが、句会を開催するにあたり、絶大なる協力をした事でしょう。
 「大椿」こと、当寺二十八世秀海上人は、この句会の半年後、文化六年九月廿六日往生浄土、寂をお示しになりました。藤勧進の句が、最晩年の遺句になります。
 一昨年が秀海上人の二百回忌に相当する事から、この句を石に刻み、供養句碑を建立致しました。

 木更津第一小学校(元選擇寺境内)には、その名残を伝える唯一の「藤棚」が、季節になりますと花を咲かせています。
 雲哉・祇兵・大椿こと風流人秀海上人は、一茶と、温かい友情を交わし、大きな支援をした、木更津連中俳諧の友であります。二百年前の、享和・文化年間の出来事です。
本堂西側奥に秀海上人の供養石碑が建立されています。隣接し、説明の案内板を設置致しましたのでご覧頂ければ幸いです。(参考の為、左記に、案内板と同じ文章を書します。)

 藤 勧 進
 小林一茶は、木更津に度々訪れ、選擇寺に宿泊する事もありました。
 文化六年三月六日、当時末寺の東岸寺の大藤の下に於いて、一茶俳諧友の大椿・雨十・魚沢・貞印等が集まり、「藤勧進」の句会が開かれた事が「文化句帖」に記載されています。
 選擇寺から東岸寺にかけ、幾つもの藤棚があったと伝えられ、その「藤勧進」句会を偲ばせる、唯一の藤棚が、木更津第一小学校に花を咲かせています。
 又、俳諧の友「大椿」は、選擇寺二十八世潮譽秀海上人で、東岸寺住職を経て選擇寺に入山されました。一茶と大変親しかった様です。
 本年秀海上人二百回忌菩提の為、「藤勧進」の折詠んだ一首を石に刻み供養とするものです。

合掌
     平成二十年十月六日
     浄土宗選擇寺

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 木更津の繁栄と文化発展に寄与(一)
  郷土の偉人 藍屋稲次東渓(あいやいなつぐとうけい)

 今回の「当山歴史」は、木更津の発展・文化交流に尽くし又は、影響を与えた、当寺の檀徒 稲次東渓 (元知・げんち)についてご紹介申し上げます。
 此の地方の歴史書であります、「千葉県君津郡々誌・昭和二年発行」、又「木更津市史・昭和四十七年発行」にも、その名を見ることができます。木更津の町、そして歴史に名を留める人物であります。
その人柄等、先に記した郷土史書に於いて、詳しく紹介されていますが、その文も参考に致し、特に今回は墓石に刻んであります文字(文章)を調査致しました。(墓石の左右後)
 本紙面では、墓石に刻んであります文章内容(碑陰)をご紹介申し上げる事をもって、当山歴史と致します。
 「通称を作左衛門といい、東渓と号す。享保十一年木更津に生まれる。温良にして心ひろく、家富めども財を人におごらず、人々はその徳を讃えた。書を学び和歌に秀で、けまりをし、茶事にも長じたという。稲次家は、代々薬種商を営み、木更津古来の豪商で、幕末の日本長者番付にも名を連ねた名家である。学者・文人・俳諧・遊歴者等、木更津を訪れると必ず、藍屋稲次家に草鞋を脱き、世話になったという。寛政九年寂。」以上は、稲次東渓欄に記された、歴史書よりの要約抜粋であります。
 次に、私(住職)の調査による、墓石文字の読取、原文・現代語訳をご紹介致します。判読不明な文字は□としました。


「墓石原文」

□稲次氏諱元知字公□東渓雅號而作左衛門為通稱上総歸去津人開舗於仲街以製薬為産頗亦有問屋之名盖此地商舶之所輻湊東都海南之一都會也 君高祖宗休者泉州堺人嘗有四方之志来王稲次氏家稲次宗薫知其有幹蠱之才養而子之寛始為上総人及 君凡五世事異系譜也 君天至者文甫五歳而孤外王父鈴道清撫育無所不至及長欲羪之徳其人歿罔極之恨因何洩之毎與家人語未曽不涕泣云 君為人好學而多能殊善書東都麹坊有河保壽者盖世所称烏石山人高第弟子也 君師事之積年不倦□□□□□□素智水□□舊築□□而□□□□□□又其□□□□□遺書有益初學者必為墨帖公之於世忠其先師如之詩若文獨興適意不欲甚工所著有交際辨蔵干家其餘蹴鞠茶事於雅藝皆至其極矣家政尤巖而遇子弟無有法赴人之色也甚已之私然毎閃而不見如恐人聞之者故諸有所施與多人不及知者也鄰里郷黨欽然倚頼之天明丙午不遠千里之泉下問高祖宗休君之親族有為後者否而不得至斯不能無感建石而歸也 君伏枕三月病既革集家人於枕足乃告訣遺憾晏然而逝實寛政九年丁巳十一月十九日也距生之□享保十一年二月十六日年七十二歳元知□宮氏無子再娶□
田氏亦無子以弟慎為嗣葬干同邑選撰寺先兆余興 君為友三十年如一日故略述所嘗識於當時者如此銘曰
  維孝維友宗法有常餘力游藝臨池家良
  外祖感恩先師不忘人之遇屯救之無方
  閣而不見徳寧可量赫赫光焔子孫永昌
            宮川文學川義豹撰
            門人□敬之書
            孝子稲次慎建之


「現代語訳(意訳)」

 稲次氏、諱は元知、字は公□、東渓を雅号として通称を作左衛門といった。上総木更津の人で、店を仲町に開き製薬を家業として財産をなした。また問屋(金持ちとしての意味で使っている可能性もある)としても有名である。(稲次家が裕福であることを推察するに)この木更津という土地は商船が各地から集まる港であり首都圏の一大都市である(ことにもよるのだろう)。
 君の先祖である宗休(そうきゅう)は泉州堺の出身で、かつては天下に名を馳せるという野望をもっていたが、稲次家と誼をつうじた。稲次宗薫という人が宗休の人物を見込み世話をしたところ、くつろぐことができたので上総の地に骨を埋めることにした。君の五代前の先祖から系譜を異にするのである。
 君の性質は五歳にして親を亡くしたことによって形成された。(君は)母方の祖父である鈴道清によって撫育されたが、どうしようもなかった(あまり良い子ではなかった)。長ずるにおよび人格をやしない(恩返しをしようとしたが、それが果たせないまま)祖父は亡くなってしまった。(恩をかえせないという)尽きることのない恨み(ここでは心の重荷といった意味)、これは何によって解消されるのだろうかと常に家人に愚痴をこぼし涙をこぼさないことはなかったという。
 君の人となりは勉強好きで多才であり、特に書道に勝れていた。江戸麹坊(麹町か)に河保壽という人がいた。世間で評判の烏石山人、その優秀な弟子である。河保壽に師事し、
 積年不倦□□□□□□素智水□□舊築□□而□□□□□□又其□□□□□(判読不能)
 書道をはじめるにあたって有益な(先師が残した)作品があれば、これを墨帳とし(秘蔵するのではなく)世に公開した。先師(これは恐らく烏石山人を指す)への忠はこの通りである。
 詩は文がひとりでにわきおこることを良しとし、技巧に走ることを好まなかった。著書に『交際辨』があるが版行はしていない。そのほかにも、蹴鞠や茶道などの雅芸はすべて極めるまで習得した。
 家政には厳しく子弟(ここでは従業員のことか)を甘やかさなかった。(商売をするのに)赴く人(客のことか)にあわせる。これ(赴く人の色=あわせるべき客の性質)はとてもひそかであって、(客がそれを見せるのは)一瞬であり常に見えているわけではない。(こうした商売の方法は)人を恐れているようであった。こういった(商売に)厳しいと聞いていた人たちは、(元知が)様々なものを多くの人に施与していたことを知らなかった。(だが)近隣の人々はつつしんで元知の布施に頼っていたのである。
 天明丙午(一七八六)、(元知は)自分も遠くない将来にあの世の先祖宗休を訪ねるが、今(商売をしている)親族が立派であっても子孫が無能であっては顔見世できないと、感ずるところがあり、石を建ててから(恐らく商売の礎を築いてからといった意味)あの世にいこうと思うといった。
 君が病にたおれて三カ月、ついに危篤となる。家人を病床によび別れを告げた。残念ではあるが、安らかに亡くなった。実に寛政九年(一七九七)十一月十九日のことである。生まれが享保十一年(一七二六)二月十六日であるので享年七十二歳。
 元知は□宮氏とのあいだに子が無かったので□田氏と再婚したがそのあいだにも子はできなかった。そのため弟の慎を跡継ぎと定めた。(元知は)木更津の選撰寺に葬られた。
 先兆余與(意味がわからず)。
 君と友達になってからの三十年はあっという間であったが、当時をふりかえり君の来歴を簡単に述べること、以上の通りである。銘に曰く、
 孝(家の内側)、友(家の外側)
 その統率は常にとれていた  
 技としての遊芸であったが
 書道の技には特に勝れていた 
 (自分を育ててくれた)外祖父の恩を胸に秘め
 先師さへもないがしろにすることなく
 悩んでいる人がいれば
 誰であろうと区別せずに救う
 立派な建物は見当たらないが
 むしろ(元知が積んだ)徳をはかってみるがよい(立派な建物よりも高いだろう)
 その赤々とした(徳の)光によって
 (元知の)子孫は永く繁栄するだろう
            宮川文学川義豹撰
            門人□敬之書
            孝子稲次慎建之

 以上、墓石に刻まれた原文と、その現代語訳であります。二百十年前に稲次東渓墓が建立されました。永年の風雪に耐え、現存していますが、風化が激しく、読取れない文字もあり、又、一部難解な現代語訳になっていますが、大凡の内容が理解できたのではないでしょうか。東渓には子は無く、弟の慎が養子となり稲次家を継承し、木更津の偉人東渓を讃えるべく顕彰碑とも言える、墓石を建立致しました。墓石正面は「東渓先生之墓」と刻まれています。文中に「著サルニ交際辨有ルモ家ニ蔵ス」とあります。「交際辨」なる本を著していますが、現存していません。どのような内容の書物であったのか、残念です。又、特に末尾の句の意味は、「東渓の徳は、如何なるものよりも高い」という事であります。東渓の人徳・仁徳を讃えるに相応しい文となっています。

 東渓は、安永四年(一七七五)当寺二十七世仁誉代に、御母追善菩提の為、朝夕に読経し、阿弥陀経を写経して、当寺に奉納しております。(母安永四年十月二十九日没)現在一幅の軸となり、当寺で大切に保管しておりますが、篤信のご信仰の人でもありました。
 又、碑陰の前部と後部に、東渓より五代前の「宗休」の名前が出てきます。稲次宗薫(六代前)の養子となる人物で、泉州堺(現在の大阪府堺市)の出身、宗薫に見込まれ稲次家を継承した人物です。この文の内容から察するに、稲次家繁栄の基礎を築いた方、又は稲次家中興のような方であったと思われます。「自分も遠くない将来にあの世の先祖宗休を訪ねるが・・・・」と、あります。宗休との、極楽浄土での初対面を大変気にしています。
 この宗休の名は、境内にあります、貞享五年(一六八八)に奉修された、「奉回廻千日念仏」碑の中に見つける事ができます。当寺二十二世豊譽上人代に壱千日間(約三年)の大別時念仏会が行われました。その記念の為、石碑を建立したと思われます。石碑の左側面に「長行之結衆」とあり、参加者と思われる、檀徒の名が書されていますが、筆頭に宗休の名前が刻まれています。
 更に、元禄七年(一六九四)に、二十三世仰譽上人が書しました「十念名号」(現在当寺で保管)を宗休に授与しています。東渓墓文と二つ事例を総合致しますと、別格的な篤信の信者であった事が分かります。
 そして、幸いにも、此の項執筆中の十一月一日夕刻に、現稲次家十四代当主稔様より、稲次家の過去帳のコピーをご送付頂きました。そこには、この「宗休」は、稲次家の中興開祖と記されており、私の(住職)想像した通りでした。

 
当寺二十三世 仰譽上人 名号
元禄七年五月 稲次家中興開祖「宗休」に授与


 東渓は、稲次家隆盛繁栄の基を築いた、中興開祖の宗休を範とし、更なる、稲次家発展の為に、精進努力された方で、稲次家五代目当主であり、後中興ともいえる方でありましょう。東渓の人物像が、墓石の碑陰より、推測する事が出来ました。
 藍屋稲次東渓は、特に木更津の隆盛と文化発展に尽くされた、当時を代表する方の一人であります。
 最後に藍屋稲次家が、「幕末の日本長者番付にも名を連ねた名家」と、郷土の歴史書にありますが、この度その番付を発見できました。
 「関八州田舎分限角力番附」(横山町和泉屋永吉板)に、「質屋 木更津 藍屋作右エ門」 と、あります。(名前の右と左が誤記)
 今の関東地方の番付で、「田舎」とありますので、江戸を除いての番付です。
 藍屋稲次家は、徳島より「藍」を仕入れ、江戸で商いをし、巨万の富を得たようです。薬種・藍・質(両替)商等で、関八州屈指の大豪商でした。
 以上、稲次東渓についての「当山歴史」でした。次回は、八代目「稲次真年」(国学・文学者)についてご紹介します。


≪関八州田舎分限角力番附≫

 活字にした時、作衛門を作衛門と、誤字したのでしょう。


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 木更津の繁栄と文化発展に寄与(二)
  郷土の偉人 藍屋稲次眞年(あいやいなつぐまとし)


 前回は、藍屋 五代目当主 稲次東渓につて書しましたが、今回も同家より、八代目を継承した「稲次眞年」について、ご紹介申し上げます。
 稲次家は、長者番付にも載るほどの大豪商(薬種商他)で、木更津は勿論の事、上総国を代表する名家の一つでありました。
 代々の当主は、家業の隆盛に努めたといわれ、又商いに精進するかたわら、学問にも秀で、国学・和歌・書・茶道にも長じ、歴代の当主は、木更津の文化人としても、その名を知られておりました。木更津を訪れる文人墨客は、必ず藍屋稲次家に草鞋を脱ぎ、世話になったと伝えられています。
 稲次眞年もまた、木更津の文化交流発展に尽くし、当地に影響を与えた、当寺の檀徒であります。
 今回の「当山歴史」は、五代目「稲次東渓」同様、八代目「稲次眞年」の墓石に刻んであります文書を解読し、その人となりを、お知らせする事を以って、当山歴史と致します。


 此の地方の歴史書であります、「千葉県君津郡々誌・昭和二年発行」、又「木更津市史・昭和四十七年発行」に、下記のように紹介されています。(同書共ほぼ同文)

 『眞年字は子音、錦江と号した。寛政八年(一七九六)木更津に生まれた。年少にして詩を賦し、文にすぐれ、また書道にも通じ、草書、隷書までも能くかけた。岡田真澄について国学を学び、和歌をも学んだ。文政十三年(一八三〇)三月奥の松島に遊んだ折、逆旅において病没した。享年三十五歳であった。遺稿に「松島日記」「秋の寝覚」などがある。(「君津郡々誌」による)』と、あります。
 同書とも、ほぼ同文であり、僅かに三行の紹介のみであり、木更津市史は、君津郡々誌の写しであります。






 さて次に、私(住職)の調査による、墓石文字の読取、原文・現代語訳をご紹介致します。墓石表背の両面に文字が刻まれております。尚、判読不明な文字は□としました。
 *記録の為に原文を掲載しました。原文は、難解なので、「現代語訳」をお読み下さい。

「墓石正面原文」
 齋譽眞年居士墓
稲次主ハ名を眞年といひて都遠き上津ふ佐に生出給紀(き)とみやひ
尓(に)して家のことおきてそゐるいと万(ま)には文机のもとさらぬいにし弊乃(への)道たとられけり其委事(そのくわしきこと)ハこゝにいはす詠おかれたる歌あまたの中に一は
 花乃(の)香に 友のもとへ と免(め)こかし
 まさによしのの 礒山櫻
今盛なりとハ品贈られしハいと免泥(めで)たく裳(も)奥ゆかしきことし春人ゝ
袖を列(つらね)て陸奥の方へ遊はれし時阿ふくま川にて 
 又い津(つ)か 渡(わたる)へしとも思ハねば
 けふあふくまや 別なるらむ
とよまれし所あちきなかりける 
松島にハ行給程ニ已美(きみ)は病に臥て 
 草枕 旅にしやみて 布(ふ)しをれハ
 春乃(の)一夜も 年かとそ思ふ
と物の端に記おかれしをかたみに閏三月二十一日
よハひ三十五にして身まかられしそかなしきや故郷人ゝのなけきハ更なり
親も詘む袖をしほりつゝ松島の松の千年にあらすあふくま河の流て帰
らぬるを足すりしておしみあへりいてや主か世におはせし時何
具禮(くれ)とおのれに問聞てふよみかきあらましかい残してよと母
としの乞給へは涕に筆をぬらしなけくはかり□□□けり
     文政十三年秋源真澄

「現代語訳(意訳)」
 齋譽眞年居士墓
稲次の主は名を眞年といって都から遠く離れた上津房(上総)で生まれたという。その暮らしは雅であり、家業をわきにおき、家にいるあいだは文机に向かって古の道(国学)の研鑚を積んでいた。その詳細については記さないが、(眞年が)詠んだ多くの和歌のうちで一番に挙げられるのが以下である。
 花の香に 友のもとへ とめこかし
 まさによしのの 礒山櫻
今が桜の季節であると品を贈ったのはとても美しく奥ゆかしいことであった。
今年の春、(眞年が)友人らと東北地方へ旅行した際、阿武隈川に臨んで、
 またいつか 渡へしとも 思はねば
 けふあふくまや 別なるらむ
と詠んだのは味気ないことだ。
松島に至ると君は病気に罹り、
 草枕 旅にしやみて ふしをれは
 春の一夜も 年かとそ思ふ
と帳面に書きつけたのを最後に、閏三月二十一日、三十五歳にして儚くなった。悲しいことである。故郷の人々の嘆きは深く、親は声をつまらせた。皆が涙にぬれた袖をしぼりながら、(松島とかけて)松は千年であるはずなのに(阿武隈)川のようにながれて跡をとどめぬとは、と残念がった。
いでや(感動の意をあらわす語:いやどうも、いやもう)あなたが存命のころ色々と私(岡田真澄)に質問したという読み書き(勉学、ここでは和歌・国学)の概略を残して欲しいと(眞年の)母親に頼まれたが、涙で筆を濡らし嘆くばかりで、□□□(判読不能)けり。
     文政十三年(1830)秋 源真澄

と、表面にあります。
 何と人生は儚いものでしょう。阿武隈川での一句、正に、死を予感させる様な「別れ」の詞とも取れます。
 特に、
「草枕 旅にしやみて ふしをれは 
 春の一夜も 年かとそ思ふ」
は、
「旅の途中で病気に罹り臥していると春の一夜も一年かと思えてくる(それほどに長い)
と解釈できます。この歌は、孟浩然「春暁」の一句、春眠暁をおぼえずを下敷きにしているのでしょう。心地よく熟睡をさそう春の眠りが一転して病と不安にさいなまれる長い時間(或いは死)へと変わってしまった」という眞年の心情をあらわしており、遺句であり絶句であります。
 この墓石表面の文は、「岡田真澄」が門弟の眞年の為に、母の依頼により撰じ、書したものであります。
 岡田真澄とは(ネットより)、【寛政の三博士といわれた、岡田寒泉の子に生まれる。幼い頃は家学であった儒学を学ぶが、後に加藤千蔭に学び、歌人・書家として名を知られるようになる。清水浜臣門下とも交流し、歌合や歌会に参加している。書法を学ぶために仮字に関する著作が多い。天明三年(一七八三)~天保九年(一八三八)二月一九日 五六歳没】当時江戸でも有名な国学者の一人でありました。眞年の国学・和歌の師匠であります。

 次に「墓石背面原文」(碑陰)
   *現代語訳をお読み下さい。

 稲子音之碑(碑陰)
姓稲次諱希聲又稱真年別号錦江子音其字南摠歸去津人也天資穎悟丱童賦詩属文兼善草隷及其長也厯覧羣籍通其理義敏捷之才不局一方其他技能甚多此郷也文人韻士諸般之藝徒自輦下来游者常不断矣若乃良辰美景四時之賞賓匆萃止則觴酌吟哦坐花醉月其風韻雅度卋人稱之也
久矣近者専志於國學覃思於和歌屢就真澄岡先生而焉日就月将題咏頗満巾笥其可觀者盖不尟矣庚寅之春偶謀東遊於諸友也其相携者白井一川木邨南悠及僕也行自鹿洲經水府渡阿武水而拉仙臺也途中忽然罹病遂没干松島之逆旅春秋三十五維文政十三年閏三月廿一日也距國一千餘里同侶僅兩三人事出不豫進退維谷乃不得已相義委付僧家火化其屍於是假記姓名郷里歳月於石以建之雄島若其白骨實還葬干本土斯碑也其所詠歌并岡先生之序言而勒其面乃書銘其背曰
 男児既生 四方是事 故國非故 異郷豈異
 人之死也 命之所致 松洲佳麗 維山維水
 名聲不亡 永存勝地 
友人石惟一撰并書


「現代語訳(意訳)」
姓は稲次、諱は希聲。また眞年を通称として別号は錦江。子音は字である。
南総木更津の人。生まれながらに優れていて幼い頃より詩文をつくり草書・隷書を得意とした。
長ずるにおよんでは沢山の書物に目を通し、それらを理解することが早かった。こういった才能はひとつに偏らず多くの機会に発揮された。
この南総木更津は江戸より様々な文化人が常に訪れて絶えることがない。これは一年を通じて穏やかな気候、美しい風景にめぐまれているからである。
そのため観光客は酒を酌み交わし詩を詠むのに忙しく、まるで花に座り月に酔っているようだ。その雅な趣きは世俗を超越しており、誰もがそれを称賛する。
近頃(眞年は)、国学を学び和歌について深く考え、しばしば岡田真澄先生に教わっている。
お題をきめて詩をつくるのだが確実に進歩している。書いた詩で小箱がいっぱいになるくらいだが注目すべき出来栄えのものが少なくない。
文政十三年(一八三〇)庚寅の春、(眞年は)友達との旅行を企画した。(眞年と)一緒に行く者は、白井一川、木邨南悠と僕(石惟一)である。
鹿嶋から水戸を経由して阿武隈川を渡り仙台まで至った。
旅の途中、(眞年は)にわかに病気に罹り松島の旅館で亡くなった。享年三十五歳。文政十三年閏三月二十一日のことである。
故郷から千余里も離れた遠くの地で同行者はわずかに三人。突然のことなので全く準備が整わず、どうすることもできない。やむを得ず三人で相談し、僧侶にたのみ松島で火葬に付し、仮に姓名出身地生年月日を記した石を雄島に建てた。
こうした経緯で遺骨は故郷に帰り先祖の地に葬られた。
この墓碑の表面には(眞年が)詠んだ和歌と岡田真澄先生の序言が刻まれている。
そうであるから裏面に銘を記す。
 男子がひとたび生まれでれば 天下を相手にする (天下が住みかであれば)故郷も故郷ではない (同じ理由で)異郷も異郷ではない 人の生死は 天命によっている   松島は景色が美しいところだ あの山並み、あの水面 その名声が亡びることはない 景勝地はいつまでも存り続ける
     友人 石惟一 編集並びに書
と、墓石背面にあります。
 江戸後期頃の木更津の繁栄隆盛が偲ばれる文章があります。眞年は「和歌・書」に勝れ、国学者岡田真澄に師事、特に和歌の研鑽に努めるのであります。
 又、眞年の姉は、当地方の飯野藩藩医の稲村君玉の妻、喜勢子であり、姉も門人の一人であり、その一女は、織本永世に嫁し、織本東岳は、その子であります。
 眞年は、「松島日記」を著していますので、初めての松島遊学ではなかったはずです。
 しかし、この旅が、今生のお別れとなりました。文政十三年の事です。道中四人で、国学・和歌等語らい、時には、酒を酌み交わし楽しい、更には見聞を広める修学の旅であったはずであります。
 眞年一行は、鹿嶋から水戸、そして阿武隈川を渡り仙台、ついに、日本三景の一つであります、松島に到着。楽しい遊学の見聞が、一変し、眞年はここで、にわかに病に罹り、妻子眷属、藍屋の奉公人を残し、旅の空に散るのであります。無念の一言でありましょう。
 同行の三人は、相談をし、眞年の葬儀を営み荼毘にふし、「仮に姓名出身地生年月日を記した石を雄島に建てた。」と、あります。雄島という所に、石、即ち供養碑を建立した事が刻まれています。その後、遺骨は選擇寺の稲次家墓所に納骨されました。
 さてそこで、この「雄島」とは、松島のどのあたりなのでしょうか。ネットで調べると、松島海岸駅より数分の所にある小さな島です。

【松島水族館から南東へ二百メートルほど行ったところに、日本三景「松島」の地名のルーツとされる雄島がある。「瑞巌寺の奥の院」とも称される雄島は、東西四十メートル、南北二百メートルほどの島で、朱塗りの渡月橋で陸と結ばれている。島内に点在する岩窟には、諸国から渡った修行僧が刻んだ石の卒塔婆や仏像、法名などが数多く見られ、霊場としての風景を今にとどめている。】
 (ネットより)




即ち、「雄島」は、霊場の島でした。ここに、眞年の供養碑を建立したとありますので、私は(住職)は、松島観光協会に連絡をとり、眞年に関する子細を 話し、調査をご依頼申し上げた所、「木更津邑 藍屋 作左衛門 」と刻まれた、「餐(さん)霞(か)亭主(ていしゅ)墓碑(ぼひ)」、と呼ばれる、お墓があるとのご連絡頂きました。何と、眞年の供養碑が現存していたのです。
 百八十年前に、同行の三人が建立した供養碑であります。選擇寺境内の眞年墓所の文言通りでありました。
 稲次家現当主にお知らせし、私(住職)は、年が明け、一月に入り、墓参そして確認の為、松島海岸の「雄島」を訪問致しました。上記「雄島」の紹介のように、二十分程度で、島を一周できる程の、小さな島です。正に霊場の島。いたる所に、石仏・墓地・供養塔又、御堂も建立されており、諸堂石碑等は、名刹瑞巌寺で管理されているとの事。眞年の供養碑は、島の最北端に建立されており、正面を東に向け、故郷の上総木更津を見つめているかの様に、ひっそりと建っておりました。
 正面中央に立ちますと「餐霞亭主墓・木更津邑・藍屋」の文字が直ぐに眼に入りました。
 私(住職)は、塔婆を持参し、お経を読み、懇ろにご供養申し上げました。


 千里を越える異郷の地、奥州陸奥国松島の雄島に、文政年間に建立した稲次眞年の「供養碑」が朽ち果てずに残っている事に有難さを感じるのでした。
 墓石の調査をしなければ、又、観光協会の方が、探してくれなければ、此の事実は永久に分からなかった事でしょう。正に仏縁でございます。眞年居士が、この私(住職)をお呼びになったのかもしれません。
 雄島では、左記にも記しましたが、稲次眞年の供養碑を「餐霞亭主墓碑」と、呼称しています。
 そして更に、この「餐霞亭主墓」の事が、松島町史資料編Ⅰ(松島町平成元年発行)に、記載されている事が分かりました。「墓碑」の正面背面の文字全文の紹介が、次の様に書されています。

四 墓 誌
 2 雄 島
  (2)餐霞亭主墓碑(さんかていしゅぼひ)
姓稲次、諱眞年、字子音、通呼作左衛門、南総君去津人叺、寛政八年丙辰生、以文政十三年庚寅客死于奥之松島、春秋三十有五、葬於尾島松吟庵傍
        木更津邑
餐霞亭主墓
           藍屋

難面もかくれし月や啼蛙     雪空舎南悠
行春と思へと尽きぬ名残りかな 欣多楼爽章
一羽かもて帰りはかなし鴈の声 孤坐亭一架
春の葉も易くて消つ分れ霜    畔戸斎一川
文政十三年庚寅閏三月 
 
 (背面)
  補助
  扇屋弥右衛門
  石工  長三郎

 以上の様に、松島町史資料編Ⅰ(五九七~八頁)に、記載されており、間違いなく、「墓碑」に刻まれている全部であります。
 「仮に姓名出身地生年月日を記した石を雄島に建てた。」正に、仮に建てた「石」が現存し、松島では「餐霞亭主墓碑」と呼称され、今は昔の小さな出来事を留めています。
 供養碑右側には、「姓稲次~松吟庵傍」まで刻まれており「姓稲次~春秋三十有五」までは、姓名出生地生年没年月日等、選擇寺墓地・市史の通りです。「葬於尾島松吟庵傍」は、「尾島(雄島)の松吟庵の傍らに葬る」との意です。現在はこの「松吟庵」はありませんが、その傍らに供養碑を建立した事が分かります。
 次に「餐霞亭主墓」とは、「餐霞亭の主の墓」でしょうか。眞年に「餐霞亭」の名は資料で見つけられません。没したときに、同行の三人が命名したか、眞年本人が付けたか分かりません。「霞を食べる」霞を食べて、人は生きて行かれませんので、この世の「人非ず」でしょうか。即ち没した事を「餐霞」の二文字で表現したのでしょうか。「松吟庵」の傍らに、「餐霞亭」、「庵」と「亭」何となく意味は、通じるものがありますが、だとすると、没した後、同行の三人が命名したのでしょうか。
 謎の名前になります。しかし、「餐霞亭主」とは、眞年を表し、その名前である事は間違いありません。
 次に、出身地の「木更津邑」、屋号の「藍屋」の文字が刻まれています。
 供養碑左側には、同行の三名と、松島の知人であると思われる方の、名前があり、眞年との別れの「句」が刻まれています。眞年の「死」を悼んでの詩であります。
 雪空舎南悠は、「木邨南悠」、畔戸斎一川は、「白井一川」で、木更津からの同行者です。そして、「句」の内容から、孤坐亭一架は「石惟一」であると、想像できます。選擇寺墓地の眞年墓地背面を、撰し書した人物であります。すると、欣多楼爽章なる人物は、松島の知人学友でありましょう。
 この供養碑の背面には、建立にあたり、協力した「扇屋弥右衛門」と、石碑の文字を刻んだ、石工「長三郎」の名前が刻まれています。「扇屋弥右衛門」なる人物は、以前より眞年と交友があった方と思います。
 孤坐亭一架の「一羽かもて」の部分は、「一羽か賢(け)て」の様に、見えますが、(調査が必要)何れにしても、突然の悲しい別れを詠んだ「句」であります。
 眞年は、文政十三年庚寅(かのえとら)に没しました。雄島の「餐霞亭主墓碑」についての事を知ったのは、昨年の事で、没後三度目の庚寅年に当たります。百八十年前の出来事が、物言わず墓石に、刻まれて真実を伝えているのです。


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